《食べ物さがし》
祖父は私の皮膚病を気にしていたようだ。栄養不足なのだろうなと言った。
『橋の下にアカハラがいるだろう、あれを捕まえて黒焼きにして食べるとお前の皮膚に効くそうだ』といった。
腹の赤いアカハラというのはイモリの一種だが、どうにも気持ちが悪くて、採って食べようとは思わなかったし、祖父も採ってきてくれることはなかった。
田んぼのタニシを取ってきて茹で、酢味噌に入れると旨かった。
池が干上がる頃、池の奥のほうに繁茂している「菱」の実を蔓ごとバケツ一杯とってきて実を取り、茹でて家族全員で食べた。やや渋いが栗のような味がする。ひと夏になんども採ってきてはみんなでたべた。
池にいるカラス貝は簡単に見つけられるが、図体が大きいのに実が小さく味もなかった。
栄治さんと二人で、ドジョウ取りに行った。四畝もん(120坪)と呼んでいた田圃の脇の溝をせき止めて、泥の中からドジョウを手掴みする。バケツに半分ほども捕まえて持ち帰り、大きな木のタライに入れ数日間水を入れ替えて泥を吐かせると、臭みがなくなる。
毎朝の味噌汁に入れて一週間ほどは味わえた。タニシも菱の実もドジョウも当時では貴重なたんぱく質の補充になったのではないだろうかとおもっている。
このように食べ物を自分で探さなければならない時代でもあった。
<祖母が変になった>
終戦後しばらくして、祖母の様子が変になっていた。みんなは「気がふれたのか」「キツネがついたのか」「お祓いしてもらおうか」などと訝ったが三ヵ月ほどして徐々によくなって、半年もすると正気に戻りみんなも安堵した。
頼りにしていた二人の息子を戦場で相次いで失い、長男も次男も未だに帰国していないという中で、思い悩み、うつ病のような症状だったのだろうと思うが、憑りつかれたふうの言動に、家族はしんぱいと恐れが同居していたものだ。
<小学校六年生の担任>
国民学校が、元の小学校と改められた。
担任は梶原先生だった。多くの生徒が、梶原先生のクラスには入りたくないと言われるほど厳しい先生と言われていた。
しかし僕にとっては、生涯で恩師と言える人は数人いるが、教育者としては梶原先生が最も素晴らしい人だと信じて疑わない。
このころは、旧制中学校が続くのか、新制中学校に移行するのかの分岐点だったようだ。
梶原先生は、旧制中学の受験可能な生徒を教室の後ろに集め、机を囲むむように四人ずつ三組作った。
ほかの生徒たちは前向きに列を作って並ぶという異例な授業だった。
授業は前向きの生徒用で後ろに座ったグループには、机の上に多くの辞書などが置かれ、完全自習とされた。与えられたテーマに基づいて各グループでやるといった、大胆な発想だった。これがうまくいったかどうかは疑問が残るが、戦後教育の混乱の中での試行錯誤だったのだろう。
とうじ、先生が我が家まで来てくださって、祖父母に「洲本の中学校へ進学させてやってくれ」と言ってくださったが、「ウイ朗の父が、未だ帰ってきてないので」と、言うだけだった。
その後、旧制中学校は廃止され、新制中学校へと移行されることが決まった。
<新制中学一年生>
新制中学の一期生ではなく二期生ということになる。小学校高等科の生徒が第一期生となり中学二年生となった。
一年生から新制中学生になったのは、ウイ朗の学年が最初であった。
文部省は何をどう教えるのか、古いタイプの官僚たちには目標さえ分からなかったのだろう。教科書はどれも薄く内容も浅かった。
民主主義を官僚たちが理解できていなかったのだから、このような教科書でお茶を濁したのだろう。 新しく学ぶことになった「英語」という教科に魅力があった。英語担当の東郷先生が素敵だった。新婚ほやほやの二十代後半だったように思う。
前年の大歳神社の祭りの時、三十頁ほどの「英会話」という小冊子を買った。風呂を沸かしながらその冊子を見て勉強していた。
風呂は麦わらをくべて沸かす。麦わらは火力はあるがあっという間に燃え尽きてしまうので、次々と放り込まねばならないので、薪木で沸かすようにのんびりとはしておれない。片手に冊子をもって、片手で麦わらを放り込んでいく。
小冊子で覚えたのは、アルファベッドとローマ字だった。あとは、仮名で書かれた英会話の「ハロー」「グッドモーニング」などが書かれていた。
その程度の冊子ではあったが、それらを覚えていたのがよかった。初めてアルファベッドを見る生徒たちより一歩先んじていた。
授業が始まる頃には、アルファベッの活字体、筆記体の大文字、小文字が書けるようになっていたし、ローマ字もすでにマスターしていた。
一学期の英語のテストは抜群だった。クラスではなく学年全部のトップだった。
東郷先生は、君には英語の素質があるようだから週に二度、夜にうちへ習いに来ないかと言って下さり、習いに通ったが、お礼金を持っていくわけでもなく、 結果的には夏休み中だけだった。先生の新婚の住まいである(蔵の中)にいき、教えを受け二学期に備えた。
先生は三学期が終わる前に東京都にある、紙を扱う貿易会社に就職して去っていった。
(東郷先生は、日比谷公園の前にあるビル内の会社に勤めていられ、私が神学校に入学中に会社まで行って、一日中英文タイプライターの練習をさせてもらって、その夜は先生のお宅までご一緒し泊めていただいたことがある、五年ぶりの再会だったが、会社からの帰宅途中に、困っている外人を見かけ、〈君が行って聞いてやれ〉と言われて恥をかいたことを思い出す)