中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(17)私を守ってくれたのはだれなのか

 *明治維新からの教育制度について*

 徳川幕府は、幕藩体制であったので、各藩に教育問題を任せていた。アメリカなど共和国の国々は、国家防衛と外交を国家が行い、財政や教育制度は各州に任されている。徳川幕府も各藩に多くの権限を任せていたのだ。

 だから、教育熱心な藩は、徳川藩よりも教育レベルが高かったといわれている。

黒船来航後、わずかの間に蒸気船を独自の技術で建造した藩があった。明治維新という、世界に誇る革命を成し遂げた日本だが、明治以降の日本は中央集権制にする中で、教育制度ははかどらず、一貫した教育制度を作るのに年月がかかりすぎた。その弊害は現在にも及んでいるようにもおもえる。

 

 維新後の教育制度をみてみょう。

明治十九年(1886年)「尋常小学校」(修行4年制)と、高等小学校との二段階制度をつくる。

明治二十三年(1890年)修行年限を、三年間、及び四年間と改める。

明治三十三年(1900年)修業年限が、四年に統一する。

明治四十年(1909年)修業年限を、六年に延長と変更される。

昭和十六年(1941年)国民学校と呼称を変更し、初等科(修業年限六年)高等科(修業年限二年)となる。 

昭和二十二年(1947年)呼称が、再び小学校となり、高等科は新制中学と改組された。

昭和十六年四月に志筑国民学校に入学したとき、同級生は百四十名前後であった。

六年を終えた時の生徒数は百六十一名に増えていた。戦中、戦後に都会から疎開してきた生徒がいたからである。

 入学当時の教科は、修身、国語、算術,唱歌、体操の五科目で、国語の時間が過半数だったが二年生からレベルがあがる。踏切のおじさんに毎日びっしり教えられていたこともあり学習には困らなかった。

 家に戻ると七人家族で賑やかであり、いつの間にか、土地の言葉にも慣れ親しんで、友達も増えてきていた。クラスがいくつもあったので、同じクラスで、帰り道もおなじ生徒と親しくなっていった。帰宅すると、あれこれと仕事が待っているので、寄り道と、ものつくり見学が日課になった。

 鍛冶屋見学、古堅君の家の家業は「鍛冶屋」だった。フイゴで風を送り、真っ赤に燃えているコークスの中に鉄片をいれる。鉄片が赤くなったところで掴みだし水の中に入れるとジューッという音がする。それを鉄の塊のようなものの上に置き、大きな金槌で打ちながら左手で打つ場所を変えていく。物によっては別の人が、もっと大きな鉄槌を振り下ろしていた。そのような工程を何度も経て形が作られていった。唱歌の「村の鍛冶屋」の歌詞を思い出しながら、それらの作業をたのしんでみていた。

 せんべい作り。街の端で、道を越せば一面に田んぼが広がるという手前の所に「せんべい屋」の柴山君がいた。店の裏でせんべいを焼いている、彼の祖父の作業ぶりを長い間、楽しみながら観ていた。せんべいを焼く道具、火加減、道具の扱い方などを脳裏に焼き付けて楽しんでいた。ほしいとは思わなかったし、くれることもなかったので、気楽に楽しめた。

 竹籠屋さん。店の中が良く見えるようにガラスウインドウのようになっていたので、仕事を邪魔することもなく見学できた。太い竹を割り、それをまた割き、次は削いでいく。そうした作業から作られた、竹の薄く長い板状のものを使って、さまざまな籠を編んでいく。手順や両手の使い方をじっと佇んで眺めているとき、時間を忘れ至福の思いだった。

 かまぼこ屋さん。何人ものおばさんが並んですわり、小さな魚の身をせせり取る。それに何かを混ぜ臼に入れ、動力で回して練られたものを、細い竹に手で巻き付け、火の上に置かれた網に並べて焼き上げると「ちくわ」になった。

薄い板の上にヘラで盛って形を作り、蒸しあげると「かまぼこ」になった。働く人たちの手順や手つきを見るのが好きだった。

 農業は大変だ。五月末から、祖父が準備していた田植えのシーズンがやってきた。稲の苗を育成するために去年から確保しておいたもみ殻をくすぶらせて焼く。苗を育てるところに雑菌が入らないようにそれを撒く。苗取りも、苗運びも田植えも初めて見て経験し手伝った。

 当時のコメ作りはたいへんだった。夏場は湯のようになった田んぼに入り、指に鉄の爪をつけ、しゃがんで、すでに三十センチほどに育っている稲株と稲株との間に生えている雑草を手で掻きとっていくのだ。その仕事をしているのは、ほとんどが女性だった。

 このような風景は六年後にはなくなる。2D4という除草剤が開発され雑草取りをしなくてもよくなった。しかし、除草剤のために、田んぼにいた昆虫類やタニシやドジョウもいなくなってしまったのだった。

 

夏休みの子供の作業

学校に通っている子供たちは、外庭にむしろを敷き、木製のコモ編み機を置き、麦わらを使って編んでいく。高さが三十センチ余り、上辺に幅十五センチほどの板があり、長さは五十センチほどの粗末な道具だ。

木の枝を十センチほどに切り、真ん中あたりを削っただけの、駒といわれるものにタコ糸を巻き付けたものが八個いる。駒を上部の四か所に振り分けて麦わらをのせ、八個の駒をそれぞれ、あっち側とこっち側とにふり、また麦わらを置いて同じ作業を繰り返すと、どんどん編みあがり幅が広がって行く。決められた幅で糸を絞めて出来上がり。 

「麦わらコモ」は、一升瓶を箱に入れて輸送するときに割れないようにする緩衝製品だった。当時は、瓶の上からコモをかぶせで輸送して、当時にはなくてはならないものであった。

子供たちには一日二十枚作ることを祖母から言いつけられている。たくさん溜まれば祖父が「コモ屋」に売りに行く。夏休み午前中の日課として父の兄弟たちもやってきたことだそうだ。段取りを考えるのか好きな彼にはいたって簡単な作業だった。

夏の昼休み

夏の午後は、大人たちは座敷で昼寝をするのが習わしになっていた。近所の子供たちは、下の池で騒いでいる。国民学校の高等部の生徒たちは八メートル、幅40センチの分厚い架け橋を池に浮かべて、それに乗り楽しそうに漕いでいた。架け橋は、池の水を田んぼに配水する場合に「ひ」を抜いて(池の中に排水のための穴があけられていて、それを上部から杵の棒のようなものが差しこまれている。

堤から「ひ」まで渡るために差しかけられているのが架け橋だ)かなり重いものだが、高等科の生徒たちには平気なのだろう。

架け橋をこのように使うのは禁止事項だが、大人たちは彼らを信用しているようだった。老人たちは「絶対に「ひ」を抜いたらあかんぞ。足が吸い込まれて溺れてしまった人がいる」と厳しく言っていたので、だれもが常識を知っていた。