中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(2)私を守ってくれたのはだれなのか

 両親をうしない、孤独の身で十五歳から

社会に出て、もまれてきた。別の視点から

いうと、とてもへんてこりんな人生だ。

 苦境がつづいたが、いつも笑顔は絶やさ

なかった。

 笑顔をくれたのは、十六歳の時に出席した

青年団の中の女性の一言だった。

 それ以降、わたしは笑顔を絶やさないで

生きてきた。たった一言が私の人生を変えた

ともいえる。

 ある意味で、とても数奇な人生を、順に

綴っていこうと思う。

自分の実力以上の仕事がやれたとおもって

いるが、だれかが私を守ってくれていたから、

できたのではないかと思っている。

 あるいは、拾った「あの石」が守ってくれたの

かもしれない。

そんな思いを書いてみたい。

 

どんな子どもだったのか

 子供のころは、近所の子どもたちと仲良く

楽しく遊ぶ子供だった。大人の人達からは、

行儀のいい子だねと言われる子供だった。

下校の際に、道に横たわっている蛇を見つけると、

しっぽを掴んで振りまわす子供もいたし、蛙の

尻に麦わらをつき刺して、空気を送り込み

風船のように膨らませたりする子もいたが、

わたしは動物や昆虫を痛めつけることはな

かった。

 池の堤の草原には昆虫がいっぱいいて、

キリギリスやバッタを捕まえると、バッタ

が暴れて足がポキンと折れたことを、なんどか

経験したが、いじめるつもりでやったのでは

ないので、ごめんと謝った。

昆虫や小動物と遊ぶのは好きだが、蛇や

ムカデは大嫌いだったし、なぜかカミキリムシ

は大嫌いだった。

 蟻の行列を見ると、長い間じっと観察して

楽しんでいた。

トンボは大好きだった。池の周りをぶんぶん

飛び回るヤンマトンボが、トンボの王様の

ように思っていた。頭より少し上の辺りを、

直線飛行しながら大きな池を周回する姿が

美しくおもえた。

隣近所と遊び場所 

 子どものころ、よく遊んでいた場所は

限られていた。

 戦時中に作られた「隣保(りんぽ)」と

いうのは、組織の最小単位を表す用語だった。

当時は回覧板を回すのも、なにかの通達も

隣保単位で行われていた。

大きな池を挟んで東側に六軒と、西側にも

六軒で一つの隣保だった。

 

下校時に途中までいっしょに帰ってきた

生徒たちは、三角田と呼ばれる地点で

左右に分かれて家にかえる。

 左はやっと車が通れるほどの道で、

池の西側に向かう。

わたしは右のほうの道だ。一人がやっと

歩けるだけの細い道で、左に田んぼ、

右は農業用水路だから、どちらに転んでも

たいへんだが、住民は暗闇の時でも歩ける。

 池は、周囲一キロ以上はあるだろう。

英語ならレイクと呼んでもいいかも知れ

ない大きさだ。

ぼくの家は、池の東側に位置していて、

池を見下す高台にあった。

町を挟むように東側と西側に低い山がある。

家の庭からは、町の八割を見渡すことが

できるだけでなく、大阪湾を航行する、

多くのさまざまな船舶をながめることが

できる。

対岸の紀州に続く山並みも一望できる

別荘地のようなところだ。