(遊び場所)
遊ぶのは近くの五軒の子供たちしかいないが、
歳の差もあって、上下三歳違いという子供は
五人だった。五人がいつも一緒に遊べるわけ
ではない。
それぞれの家の庭で、ラムネ玉でゲームを
したり、べったんと呼ばれるカードをひっ
くり返すあそびとか、五寸釘を使って土に
打ち込んで陣地取りをするものもあった。
「庵の山」で遊ぶときは、かくれんぼとか、
缶蹴り、三角野球だった。
遊ぶ時間は多くはなかった。農作業が待ち構えて
いるので、農閑期だけがあそべる時期だった。
月に一度は天神神社の広い境内で同級生たちと
布製のグローブで野球をやっていたが、貴重な
想い出となっている。
< 庵(あん)の山とはなにか >
大きな池は、谷を堰止めて作られている。
分厚い堤防が百数十メートルほど続いていて、
堤の上は広く、通り道以外は草が茂っていて
遊び場にはならない。
この池を、池の奥側から眺めると、堤防の
左隅(東側)には小さな森が見える。
堤防の一部の役割を果たしているようだ。
池が作られる前からこの小山があったはずだし、
その当時の風景を想像すると、なぜか不思議な
感じがするのだ。
池が作られるまでは田畑だけの平らな場所に、
その小山だけがぽつんと存在していただろう
姿を想像すると、何だか不思議な小山である。
ひょっとすると、ずっと昔は、ぼくたちが
住んでいる丘と、庵の山がつながっていたの
かもしれないと思うことがある。
それを確かめたかったが、古いこととて、
近所では知る人はいなかった。
谷を堰止めて池を作ったのが先か、「庵」が
できたのが先かどうかは、わからない。
近所の人はだれもがこの小山のことを
(庵の山)と言っている。
一辺が二百メートル余りで底辺はほぼ
三角形で、高さが三十メートルほどの
小高い丘といった方が正しいだろうが、
鬱蒼と木々が生い茂っている。
墳墓だったのではないかとおもえない
でもない。