中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(3)私を守ってくれたのはだれなのか

 (遊び場所) 

遊ぶのは近くの五軒の子供たちしかいないが、

歳の差もあって、上下三歳違いという子供は

五人だった。五人がいつも一緒に遊べるわけ

ではない。

それぞれの家の庭で、ラムネ玉でゲームを

したり、べったんと呼ばれるカードをひっ

くり返すあそびとか、五寸釘を使って土に

打ち込んで陣地取りをするものもあった。

「庵の山」で遊ぶときは、かくれんぼとか、

缶蹴り、三角野球だった。

遊ぶ時間は多くはなかった。農作業が待ち構えて

いるので、農閑期だけがあそべる時期だった。

 月に一度は天神神社の広い境内で同級生たちと

布製のグローブで野球をやっていたが、貴重な

想い出となっている。

 < 庵(あん)の山とはなにか >

 大きな池は、谷を堰止めて作られている。

分厚い堤防が百数十メートルほど続いていて、

堤の上は広く、通り道以外は草が茂っていて

遊び場にはならない。

 この池を、池の奥側から眺めると、堤防の

左隅(東側)には小さな森が見える。

堤防の一部の役割を果たしているようだ。 

池が作られる前からこの小山があったはずだし、

その当時の風景を想像すると、なぜか不思議な

感じがするのだ。

池が作られるまでは田畑だけの平らな場所に、

その小山だけがぽつんと存在していただろう

姿を想像すると、何だか不思議な小山である。

ひょっとすると、ずっと昔は、ぼくたちが

住んでいる丘と、庵の山がつながっていたの

かもしれないと思うことがある。

それを確かめたかったが、古いこととて、

近所では知る人はいなかった。

 谷を堰止めて池を作ったのが先か、「庵」が

できたのが先かどうかは、わからない。

 近所の人はだれもがこの小山のことを

(庵の山)と言っている。

 一辺が二百メートル余りで底辺はほぼ

三角形で、高さが三十メートルほどの

小高い丘といった方が正しいだろうが、

鬱蒼と木々が生い茂っている。

墳墓だったのではないかとおもえない

でもない。