中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(26)私を守ってくれたのはだれなのか

 《十三重石塔撤去で見つかったもの》

 昭和二十三年になって僕にとっては大きな異変が起こった。僕の人生にとって何よりもおおきなできごとだったといってよいだろう。

 

学校から帰ってくると「庵の山」に大勢の人足たちが来て、十三重石塔の周りに櫓を組んで解体作業を始めていた。近隣には事前に知らされていなかった。

解体が進み、一番下の塔身を取り出そうと掘り起こしたところ、大きな麻の袋に石が詰められたものが何個も出てきた。すでに袋はボロボロになっており、人夫たちが運ぼうとすると袋が破れ、こぼれ落ちた石がそのあたり一面に散らばった。 

多くの石は別のものに入れられて持ち去ったが、車に持っていく途中に落とされた石は、そのまま道に散らばったままだった。 

撤去作業は進み、五座の如来像も、小屋も、敷地にあったものすべてが持ち去られ、更地となり以前の面影はなにひとつも残っていなかった。

 

<捨てられた石には文字が書かれていた>

 

 近所の子供たちが、捨てられていった石を拾って池に投げて遊んだ。水切り遊びができるような平たい形の石ではないので、どこまで遠くまで投げられるかを競って投げた。

 しばらくすると、それにも飽きて石は踏まれるままになった。だれもその石に注目しなかった。

じっと石を眺めて考えた。なぜならすべての石に文字が書かれていたからだ。般若心経が一つの石に一文字が書かれているのと、梵字が一文字書いてあるものもあった。

 梵字のものは三個しかなかったので、あとは漢字が書かれたものを七個拾って持ち帰った。

 わたしの長い人生の中で、これらの石が私の生きる道に何らかの作用をしたかもしれないと思っている。

危険予知を知らせる寒気はこの後から起こり始め、それは僕を危険から身を守る信号だったと気がついたのもそのころからだった。

 

<中学生になってまた重労働が一つ増えた>

 

 小学生から続いている僕の仕事というのはいろいろありすぎる。

毎朝起きてすぐに、籠と鎌をもって家を出る。牛に与えるえさの草刈りのためだ。

小作農であり、わずか五反の田があちこちに散らばっている。田の畔に生えている草以外は刈れない。とにかく草刈場がないのだ。

夏なら草も伸びやすいが冬場は困る。指で摘まむようにして草を刈る。それを持ちかえり、餌桶の上に藁切を置いて稲藁を五束短く刻む。刈ってきた草を混ぜ、米ぬかをまぶしして水を加えて牛に与える。

 それらがおわってから、朝飯が食べ、学校へと向かう。放課後は、季節によって異なるが農作業を行う。当時の農作業は、義母が中心となってやっていた。祖父の仕事は牛を扱う作業の場合だけのようになっていた。

 どこから知恵を授かったのか、(牛にうどんのゆで汁を与えるといいらしい)と祖母が訊いたそうだ。

学校の手前の道を東に曲がったところに、同じクラスの生徒の親が経営している「うどん工場」があった。毎日、登校する際に一荷の桶を担っていって預け、放課後にうどんのゆで汁が満たされた桶を担って帰る仕事が追加された。

思春期に差し掛かっているころで、重労働よりも恥ずかしさがまさっていた。中学校には合併された隣町からの生徒も通っていて、藁草履をはき、重い荷を担いで休み休み進む姿はかっこよくなかっただろう。

 

「お父さんはまだ帰ってこんのか」

 

 街中で梶原先生と会った。先生は自転車を停め、

『お父さんはまだ帰って来んのか。便りはあったか』

先生は、いつもこうして聞いてくださる。

 『昨日、初めて手紙が届きました』

 『どこにいると書いてあったのだ』

 『ソ連から届きましたが、詳しい住所などは書いてありませんでした。元気でいるから心配するなとだけ書いてありました』

 『やっぱりシベリアに抑留されていたのか、抑留されていた人も、もう大勢帰ってきているのに、お父さんは遅いな。寂しいだろうが、頑張れよ。その仕事も大変だな。お父さんが生きていることが分かっただけでも喜べよ』とやさしく励ましてくださった。

 

<シベリアからの手紙>

 

 それからは、ふた月に一度ほど封書が届くようになっていた。英語のアルファベットと似ているが、ひっくり返したような文字もあり、さっぱりわからないが、中身はいつも同じで、案じるな、元気だからと書かれていた。

 父は生きている、帰ってくるぞという思いがこれまでの不安な気持ちを一掃し希望が湧いてきて胸が熱くなった。

当時大いに流行った「異国の丘」という歌を毎日歌って、父の身を案じたものだ。

 

♪ 今日も暮れ行く異国の丘に 友よ辛かろ 切つなかろ 我慢だ待ってろ

嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 明日も来る

 

♪ 今日も更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ 冷たかろ 泣いて笑って歌って

耐えりゃ 望む日も来る 朝が来る

 

♪ 今日も昨日も異国の丘で おもい雪空 陽が薄い 倒れちゃなら ない

祖国の土に 辿りつくまで その日まで

 

父を案じ、帰国を待ちわびながら歌っていたが、まさか歌詞のような結末になるとは思ってもいなかった。

 

ソ連シベリア抑留者の帰還順序>

 

 ソビエト連邦の対日参戦によって、ソ連軍に占拠された満州朝鮮半島北部、南樺太、千島列島で戦後にかけて抑留された日本人は約57万5千人に上る。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した。

このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で41362人となっている。

 抑留後、早くに帰国できた人は、ソ連共産主義思想に従順に従った若い人が多かったという。

早く帰国させて、共産思想を日本に広めようとした戦略だと言える。

共産主義の日本での活動に協力的でないものは後に回されたようだ。父などは、共産主義ってなんだ?と思っていたのだろうと思う。非協力者とみなされたようだが、要領が悪かったともいえるのではないかともおもった。