庵の山の頂き辺りが平らにならされている。池の縁から二十歩ほど入ったところに十三重石塔が建っていた。
その奥の一段高い場所におおきな石像が五座あって、十三重石塔を見守るように鎮座していた。
周囲からは、まったく見えない場所にしては、あまりにも立派な宗教施設だと思える。
だが、だれかがお参りしている姿などみたこともない。
塔の正面から左側には小さな「庵」が建っていた。庵の中は、十畳ほどの座敷と、お茶を沸かせるほどの台所だけだった。年に一度だけ、近所の女性が集まって、子供たちに甘茶と菓子をあたえていた記憶が鮮明に残っている。
庵の裏側には、遠い昔の墓かと思えるようなものがかなりあった。なんとなく気持ちが悪いので、子供たちはそこに近寄ることはなかった。
子どもたちが遊び場としていたのは、十三重石塔と、五座の石像との間にある空間だけであり、木々に周りを囲まれている僅かの平らな場所だった。そんな小さな空間だけがだれに遠慮することもなく遊べる場所だった。
缶蹴り、かくれんぼ、ボール遊びなどをして遊んでいたのだ。
< 池の呼称 >
この池には立派な名前がある。谷をせき止めたことがわかる呼称だ。それなのに近在の人達は、その名を知らないのか(大蛇池)という。あるときぼくは祖母に、どうして大蛇池というのかと聞いてみた。
家から坂を下ると、庵の山に沿って細い道がある。右は池だ。庵の山から狭い道に垂れ下がった木々の枝が人の頭に触れ、夜などは不気味だとみんなは言うのだが、それでも、だれもが垂れ下がった木の枝を切ろうとは言いださない。
池の水に侵食されて道が毎年のように狭くなってくる。庵の山を少し削れば道が広くなるだろうが、それも誰も言い出さない。祟りのあることを恐れているのだろう。じじつ、不気味ことが後年に起こっている。