中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(25)私を守ってくれたのはだれなのか

《次男の真司がやっと帰国する》

 

 昭和二十二年半ばに、次男の真司が突然帰ってきた。戦時中もどこにいるのか、何をしているのかさえわからなかった人である。

とても元気な人なのに兵役すら行っていない。ぼくも伯父の顔さえ知らなかった。勉強が嫌いで九歳で家を出て、読み書きソロバンのすべてが出来ないという人だった。帰ってきたときには、祖父母以外は淡路にいた家族のだれも会ったことさえない人だ。大阪に住んでいる姉妹、兄弟もほとんど会っていないという風来坊だったのだ。

風来坊おじさんの話に、戦争の一面が見える

 ずっと中国の海南島という大きな島に住んでいたという。そこは楽園のようなところで、敵の飛行機さえ見たこともない、銃を打ち合う音も聞いたことがない。戦争とは全く無縁の、毎日が天国のようなところだったという。

そういう場所が中国の中にもあったのだ。当時の海南島は、ほとんどがジャングルで覆われていて、未開発で当時は住む人も少なく、戦略的にはどの国にも必要とされていなかったようだ。

 食べ物も豊富で気候はやや暑いが、おだやかで、戦争のかけらさえ感じなかったという。

戦争が終わったことも知らずにいたが、帰国命令が出たので戻ってきたという。生きていくだけなら、あれほど素晴らしいところはないという。

日本が空襲などで、どれだけ大変だったのかもしらないのだった。弟二人が戦死したのだと知っても、あまり交流がなかったからか無感情だった。

 

マラリア病の発作が続く>

 そんなのんびりした戦時中を過ごしてきた叔父だが、ある日、突然にがたがたと震えだした。みんなは驚くがどうしようもない。布団をかけて抑えつけてくれ!と叫ぶので、みんなで抑えつけた。マラリア病だという。そんな病気は、それまで知らなかったが、熱帯地方では蚊が媒介し、刺されるとうつされる病気だという。特効薬のキニーネは淡路島では手に入らない。二、三日に一度発作が起こった。

 先祖代々の大酒飲みはこの叔父にもあって、酔うと「俺はお前のおやじに殴られた。いま敵討ちしてやる」と言っては僕をメッタメッタに殴った。

昔、父が酒乱の時に、家族が逃げたという家の裏山の墓に隠れて一夜を過ごしたという場所に、僕一人が逃げて一夜を過ごしたことが数回あった。

昔、父に殴られた仇と言われても、それは家を出ていく九歳当時までの話ではないか、子供同士のけんかの仇を今になって言われても、、、と思うが口答えせずに堪えるしかなかった。

真司叔父は、そのご歳月を経て私を頼ってくるようになるのだから、人生とは面白いものだ。

 昭和二十四年八月、真司叔父は、ビルマで戦死した弟の哲夫の奥さんとの婿養子縁組が決まった。戦死した兄弟の奥さんとの縁組は戦後にはよくあったことでもある。

 

<中学生時代>

 中学生になり、近所の子供たちと遊ぶこともなくなった。冬場は早く暗くなるので遊べない。

夏は日が長いから、仕事が終われば遊べる。わずかの時間を見つけて「庵の山」で遊ぶこともあったが、小学生たちに場所を譲った。

紙鉄砲とか竹トンボ、水鉄砲など作るのが得意で暇を見つけては作っていたし、駒を回すのが得意芸だった。これらはすべて自分一人でやれるので相手はいらない。あれこれ作って余暇があれば楽しむのが得意なのだ。竹を使っていろんなものを作った。そういう手作業が得意でもあった。駒では曲芸もやれる。

 

家での作業には、縄作りがあった。足でペダルを踏みながら稲藁を二つの差し込み口に順に差し込むと縄となって巻き取り器に巻かれていく。結構しんどい作業なのだ。たくさん溜ると祖父が売りに行く。たぶん酒代になっていたのだろう。

つまらない作業もあった。山と牛小屋に挟まれたわずか1間ほどの狭い空間に、その石臼が据えられていた。

臼に麦を入れ、臼から三メートルほど離れた台に乗り、杵とつながっている棒をグンと踏み込むと杵が持ち上がる。離すと杵がドンと臼をたたく。単純で、時間がかかって疲れる作業だった。麦搗きと言って、時間をかけるほど麦が白くなっていく。

わたしが、中学を卒業した後、これらをやらされたのが義母のきよのさんだった。彼女は、そのほかに、むしろも編んでいた。むしろは布を織るのと同じやり方で作る。水汲みも、他の作業も、黙々とやっていたのが印象的だった。

 僕の場合は、藁草履を作るのが得意だった。中学生になって、みんなが靴をはいているのに、ぼくはまだ靴を買ってもらえなかったので藁草履だった。いろいろ工夫して少しでも体裁の良い藁草履を作ろうと心掛けていた。