中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(20)

今回がこの連載のちょうど20回目。 今から書くことは、私の20歳の時の経験。
そして、56年前の2月初めから3月10日ぐらいまでのこと。
 
さて、神学校を中途退学した私は、親戚にも頼らず教会にも頼らず、なんとか一人で
生きていこうと心に決め、職を探してあちこちとさまよったが、そう簡単に職は見つからなかった。
20歳を超えた人間が、保証人もなくては相手にしてくれないし、かといってキャバレーボーイは、
私の望むところではない。
持ち金も少なくなるだけではなく、住むところがないのが一番つらかった。
大阪の難波から出ている南海電車がある。和歌山と高野山に伸びている路線である。
難波から電車に乗って10~15分のところに「住吉大社駅」があり、そこには大きな住吉公園
がある。2年前に54年ぶりに訪れてみた。 「住吉大社」 は、昔のままであったが、住吉公園は
全く様変わりしていた。当たり前のこととはいえ、昔の面影を偲ぶこともできないほどに、変わっていた。
「住吉公園」には、大阪の天王寺を始発とする阪堺(ハンカイ)電気軌道と言う、昔ながらのチンチン電車
が今も走っている。その姿は昔とそれほど変わってはいなかったが、阪堺電車の「住吉公園駅」は、
昔は露天にさらされたプラットホームだったが、今では立派な駅舎に収まっていた。
 
この「住吉公園」が私の住処であった。 どうしてここを選んだかと言えば、大阪市内で野宿をしていると
浮浪者として保護されるかもしれないからだった。住吉公園も大阪市内ではあるが、郊外であって
浮浪者がたむろする場所ではなかったので安心だった。
当時の住吉公園は、あまり飾り気のないひろ~い公園だった。この辺りは空襲にやられなかったのか
古い軒並みの住宅街が広がっていた。現在のようにマンションやビルもなく平屋か2階建ての住宅街だった。
 
私は夜になると住吉公園に行き、公園のベンチに腰かけたり、寒くなると便所に入り寒風を避けた。
当時の公衆便所は汲み取り式であり、とにかく臭い。風が吹くと下から匂いが吹きあがってくる。
寒さを一時的にしのげても、臭さには閉口してものの15分も辛抱が出来ない。今のホームレス様とは
違って、寒風から身を守る囲いのない「野宿」であった。
来る日も来る日も2月の寒風にさらされながら夜を過ごし、昼間には仕事を探して歩いた。
今考えると、あまり風呂にもいかなかったので、相当に臭かったのではないかとおもう。
服装は詰襟の学生服だったが、毎日中理の距離を歩いていたので靴はボロボロになっていた。
 
ある夜は、あまりにも寒かった。 今の2月より当時の方が寒いのは当然だが、なにしろ広い公園は
風を遮るものがないから、寒風がからだの芯まで冷やしてしまう。 たまりかねてプラットホームに
停車中の阪堺電車の窓を上げると開いたので身体を滑り込ませて、座席で初発前までそこで
うとうとと眠ったことがあった。たった一度のことだったが、見つかっていれば警察に突き出されたかもしれない。
金が底をつき、まいにち 「すうどん」(なにも入ってないうどん) 一杯だけが私の食事となった。
それでも仕事探しを続けた。
 
住吉公園の周囲は住宅街だから、どの家々にもあかりが灯っている。
あの灯りの下には、家族のだんらんがあるのだろうな、暖かいだろうな・・とじっと見つめていた。
当時は今と違って夜遅くまで遊ぶ人は少なかったから、夜も9時を過ぎると、あちこちの灯りが
消えてゆく。10時を過ぎると、その明りが次から次へと消えてゆく。
残された灯りが、あと10個もなくなると突然寂しさがこみ上げてくる。どうか、この灯りが消えませんように・・
と祈る思いで見つめる中、最後の灯りまで消えてしまった。とてもやるせない気持ちになる瞬間だった。
 
その時、私はこう思った。 「こうして、真面目に働こうとしている私がここにこうしていることなど、
誰も知らないだろうな、世の中には、私のような立場の人が沢山いるに違いない。 真面目に生きようと
しているのに恵まれない人たちが多いに違いない。私はいつか、その様な人のための力になれるようになろう!!」 と、涙が頬を伝う中で心に誓った。
私の人生は、ここから始まったと言ってもよいだろう。
そして、その時、心に誓ったことを、その後の56年間を一歩一歩実践して生きてきたつもりである。
あの時の、「灯り」を多くの人たちに灯してあげたいと、いまも思っている。
人は、支えられて生きられる。支え合えればもっと強く生きられる。
住宅街から、一つずつ消えていった灯りは、私の心の灯りまで消してしまうそうだった。
辛かった、悲しかった。だが、あの時があったからこそ、今の私があるのだと思っている。