親友が亡くなった。1昨年にも一人の親友が亡くなった。35年以上も親しくしていた
(個人的なことも、何でも話し合えたと言う意味での)親友が亡くなり、寂しさと共に
近いうちにやってくることが間違いない自分の葬式について考えた。
若いころには、葬儀に出ることも少ない。核家族化して、最期の状態を見る機会も
めったにないし、葬儀に参列してもお焼香をするだけ、と言うことも少なくない。
私の場合は、がんに関係するグループと二つも関係しているので、一般の一人よりは
死と向かい合う機会が多い。
そして、通夜、葬儀と亡くなった方と向かい合うことも多くなる。
実は、私の場合は他の方と較べて葬儀に関係することが少し多いだろう。
そして、葬儀に参加するたびに葬儀についての在り方なども考えてしまう。
いったい「葬儀」とはなんだろう?と考えてしまう。単純に亡くなった方とのお別れの儀式と
考えるのが順当なのだろう。
国や宗教によって、葬儀の在り方が大きく異なる。
同じ宗教の場合でも、国によって大きく異なる。
例えば仏教。(大乗)仏教は中国から朝鮮半島をへて日本に伝えられた。
ところが、韓国の仏教では、火葬した後に骨を小さく砕いて海や山川に散骨するのが
普通らしい。埋葬をする場合もあるが、それは儒教によるものだそうである。
儒教とは宗教ではないことは周知のことなので、ここでは書かない。
オーストラリアで日本クラブの会長をしていた時期があるので、葬儀に関わることも
少なからずあった。パース(神戸市とほぼ同じ150万都市)の市街地から近い(郊外ではない)
所に巨大な墓地がある。面積まで把握できていないが、とにかく迷うほど広大だ。
この墓地には、国ごとの墓地もあり、当然小さいながらも日本人墓地がある。最初に葬られた
日本人は1900年だから、100年以上も前のことになる。
昔に作られた墓地だけに、当時オーストラリアに住んでいた人種によって割り当てられている
墓地の広さが異なるのも当然である。日本人墓地は300坪程度と小さい規模だ。
その上、長らく放置されていて草木が伸びて、墓地管理者から、このままでは日本人墓地は
撤去すると通告されてきた。そこで、ジャパンクラブや日本人の商工会議所、総領事館などが
金を出し合って整備し、今日を迎えている。今では、各グループごとに清掃日を決め、お参り
するようになっている。