ここまで書いて来て、どうしても書いておきたいことを忘れていたことに気がついた。
一つは、父のシベリア抑留についてである。
終戦後父がシベリアに抑留されたことはすでに触れた。しかし、このシベリアに抑留された
人たちのことまで書いていない。戦後、ソ連によって強制に連行され、マイナス30度以上の
極寒の土地で過酷な労働をさせられた日本人の数は65万人にも及ぶ。ソ連は、65万人を
シベリア開発のために強制的に働かせたのである。
多くの人たちが、現地の過酷さの中で死んでいった。
父のように、帰国した日に即入院し、間もなく亡くなった人たちも多い。
生きて帰還した人たちには、その後の年金支給などがあるが、父を失った私のような立場の
ものに対しては、政府は何の保証も支援もしなかった。
65万人と言う考えるだけでもぞっとするほどの労働力を、自国の開発にただでこき使った
なんとも手前勝手な国なのだろうか。
もう1点、書いておきたいことがある。
昭和20年3月13日、大阪に大空襲があった。
その日、私は育ての親の家にいた。丁度その日、姫路の連隊にいた父との最後の面会日だったので、
淡路島から姫路へ行って父と会い、大阪の伯母の家に立ち寄ったのだった。
最初の、空襲警報のサイレンが鳴り渡っても「どうせ今夜も訓練よ」と、サイレンを無視して家族そろって
家の中にいたものだ。
やがて、迎撃のための高射砲が鳴り響き、あっという間に窓の外は真っ赤な空に変わっていった。
それでも、「いまさら」と近隣への気兼ねからか外には出られず、じっと身をひそめていたものだ。
やがて、第一波の空襲が終わり、人々が防空壕から出て来てざわめきだした折をみて、私たちも
外に飛び出した。
あの時の空の色は、一生忘れられない。空全部が真っ赤だった。そして、B29から投下される
焼夷弾は、花火のようにきれいに舞い降りて来て、木造家屋を焼けつくした。
木造家屋の多い、日本の住宅事情を知って作製された「焼夷弾」とは、8角形で80センチぐらいだった
ろうか、その中に油が詰められている。投下された爆弾が空中で破裂し、ものすごい数の焼夷弾が
降り注ぐようになっていた。一坪に1個くぐらいの割合で落ちてきたのだと思う。
その日、不発になった焼夷弾の実物を見たのだ。
東京では3月10日に空襲があり、その後4・13、4・15、5・25にも大空襲があった。
大阪では、3・13・、3・14に6月は、1・7・15・24の4回、7月には10・24、終戦前日の8月14日にも
空襲はあった。東京も大阪も、第1回目の空襲が最も規模が大きく、どちらも約10000人の民間人が
亡くなった。
戦争とは、軍隊同士の戦いであるはずなのだ。民間人を故意に殺傷してはいけないことになっている。
しかし、焼夷弾を使用して、明らかに家を焼きつくすと言うことは、民間人を狙ったものである。
伯母の一人が馬喰町に住んでいた。家も財産も焼かれ、3日後に再会できたが、間一髪で死ぬ
動けなくなっている時に、消防隊の人が助けてくれたと言う。アスファルトに足をとられ、亡くなった
人が多かっただろう、逃げ遅れた人が多かったことだろうと言う。
「日本とアメリカが戦争したなんて、ウソでしょう!」と言う、大学生に出会ったとき、私は耳を疑った。
そういう時代になったのかと・・・。でも、やはり忘れないでいただきたい。
なかったのだ。
大空襲から3日後の、3月16日、私は再開した市電に乗った。そして観た!!!!忘れもしない
この世の地獄を!!上本町6丁目の、近鉄百貨店の交差点を挟んで北の角付近で、焼け残った
トタンの上に死体が山と積まれて焼かれいるのを見たのだ。おそらく火葬場などは間に合わなかった
だろうし、死体処理に困った末のことだったのだと思う。しかし、小学生4年の私には辛い経験だった。