中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(15)

ここまで書いて来て、どうしても書いておきたいことを忘れていたことに気がついた。
一つは、父のシベリア抑留についてである。
終戦後父がシベリアに抑留されたことはすでに触れた。しかし、このシベリアに抑留された
人たちのことまで書いていない。戦後、ソ連によって強制に連行され、マイナス30度以上の
極寒の土地で過酷な労働をさせられた日本人の数は65万人にも及ぶ。ソ連は、65万人を
シベリア開発のために強制的に働かせたのである。
多くの人たちが、現地の過酷さの中で死んでいった。
父のように、帰国した日に即入院し、間もなく亡くなった人たちも多い。
生きて帰還した人たちには、その後の年金支給などがあるが、父を失った私のような立場の
ものに対しては、政府は何の保証も支援もしなかった。
65万人と言う考えるだけでもぞっとするほどの労働力を、自国の開発にただでこき使った
ソ連と言う国は恐ろしい。その上に、北方4島の返還もしないでネコババしようとしているのだから、
なんとも手前勝手な国なのだろうか。
 もう1点、書いておきたいことがある。
昭和20年3月13日、大阪に大空襲があった。
その日、私は育ての親の家にいた。丁度その日、姫路の連隊にいた父との最後の面会日だったので、
淡路島から姫路へ行って父と会い、大阪の伯母の家に立ち寄ったのだった。
最初の、空襲警報のサイレンが鳴り渡っても「どうせ今夜も訓練よ」と、サイレンを無視して家族そろって
家の中にいたものだ。
やがて、迎撃のための高射砲が鳴り響き、あっという間に窓の外は真っ赤な空に変わっていった。
それでも、「いまさら」と近隣への気兼ねからか外には出られず、じっと身をひそめていたものだ。
やがて、第一波の空襲が終わり、人々が防空壕から出て来てざわめきだした折をみて、私たちも
外に飛び出した。
あの時の空の色は、一生忘れられない。空全部が真っ赤だった。そして、B29から投下される
焼夷弾は、花火のようにきれいに舞い降りて来て、木造家屋を焼けつくした。
木造家屋の多い、日本の住宅事情を知って作製された「焼夷弾」とは、8角形で80センチぐらいだった
ろうか、その中に油が詰められている。投下された爆弾が空中で破裂し、ものすごい数の焼夷弾
降り注ぐようになっていた。一坪に1個くぐらいの割合で落ちてきたのだと思う。
その日、不発になった焼夷弾の実物を見たのだ。
東京では3月10日に空襲があり、その後4・13、4・15、5・25にも大空襲があった。
大阪では、3・13・、3・14に6月は、1・7・15・24の4回、7月には10・24、終戦前日の8月14日にも
空襲はあった。東京も大阪も、第1回目の空襲が最も規模が大きく、どちらも約10000人の民間人が
亡くなった。
戦争とは、軍隊同士の戦いであるはずなのだ。民間人を故意に殺傷してはいけないことになっている。
しかし、焼夷弾を使用して、明らかに家を焼きつくすと言うことは、民間人を狙ったものである。
伯母の一人が馬喰町に住んでいた。家も財産も焼かれ、3日後に再会できたが、間一髪で死ぬ
所だったと話してくれた。火事で道路のアスファルトが溶け、融けたアスファルトに足をとられて
動けなくなっている時に、消防隊の人が助けてくれたと言う。アスファルトに足をとられ、亡くなった
人が多かっただろう、逃げ遅れた人が多かったことだろうと言う。
 「日本とアメリカが戦争したなんて、ウソでしょう!」と言う、大学生に出会ったとき、私は耳を疑った。
そういう時代になったのかと・・・。でも、やはり忘れないでいただきたい。
阪神淡路大震災1・17が語り継がれている。でも、あの大空襲は、そんな生易しいものでは
なかったのだ。
大空襲から3日後の、3月16日、私は再開した市電に乗った。そして観た!!!!忘れもしない
この世の地獄を!!上本町6丁目の、近鉄百貨店の交差点を挟んで北の角付近で、焼け残った
トタンの上に死体が山と積まれて焼かれいるのを見たのだ。おそらく火葬場などは間に合わなかった
だろうし、死体処理に困った末のことだったのだと思う。しかし、小学生4年の私には辛い経験だった。