中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(37)私を守ってくれたのはだれなのか

《私の新しい道が始まる》

 それから朝まで、おとな六人が額をくっつけ、今後どうする?という話し合いが続いた。途中で話に割って入り

『これはだれの写真なの』と一葉の写真を財布の中から取り出した。

それはたっちゃんの写真だな。という。母の妹の辰子さんだという。歌をうたってくれたのも辰子さんだと聞いて納得した。伯母の写真を母と思って大切にしていた自分も頼りない奴だなと笑えてきた。

 

 明け方になって、伯父が提案した。

『有為朗のこれまでの話を聞いていると、一番やりたかったのに、両親がいないために出来なかったことが一つあるように思う。それを二人でかなえてやればどうだろうか』

母が、それは何なの?と問う。母とは、多くを語り合っていないから、僕の来歴は知らないからだ。

伯父が、

『高校進学したかったのに、その道を断たれたことが一番残念だったのではないかとおもう。進学の時期と父親が死期を迎えていたことが重なって悔しかっただろう。だから三年遅れでも高校に行かせてやればどうだろうか。もちろん本人次第だけど、だが来年の入学になるから四年遅れになるのか』

私は奥山家での自分の立場が微妙なために、辛い思いをしたことなど、一切話していなかったが、叔父は読み取っていたのだった。

伯父の提案にみんなが同意し、私にも同意を求める。高校に行けたら嬉しいけどというと、流れが一気に決まってしまった。

 

 <翌日、母が同行して今里の叔母に挨拶に行った>

叔母はあまりにも突然の出来事に驚いて、両手を広げ、目を剝いて、まさかまさかかという表情で、私たち母子を見ていた。昨日の今日という感じの中で母を連れてきたのだから無理もない。

昨日の朝から、どのようにして神戸の家にたどり着いたのかを詳しく話すと、

『いろいろ知恵を働かせたのだね。それだけ考える力があれば、これからも自信をもって生きていけるよ。たいしたもんだね』と喜んでくれた。

 昨夜みんなで語り合ったことを伝えると、

『そりゃよかったわね、あんたのこれまでの苦労がこれで報われるよ』と言って抱きしめてくれた。叔母になんども感謝の意を伝えた。

 

角田さんにもご挨拶に伺った

角田さんは、

『長い間、思い続けた生みの母と再会できて、そんな幸せなことはない。せっかくお母さんと会えたのだ、これからはしっかり甘えなさい』

気持ちよく送り出してくださり、預金通帳と印鑑を一緒に渡してくださった。

宝石ケース製作所の月給は1000円だったが、若いものが金を持っていると、ろくなことがないからと、半分の500円を毎月預金してくださっていた。

一年半をここで過ごした。わずかの期間ではあったが、分け隔てなく接してくださり、人生にとって大切なことをいろいろと学ばせていただいた。住田さんはさまざまな意味において、私の恩人だった。

母と暮らして私が幸せになったかというと、そうではなかった。しかし、人生の大きな転換点になったというよりも、なってしまったというべきかもしれない。

しかも、おもいもよらぬ方向に向かっては挫折し、それを乗り越えて進む中で、別の道を歩むということを繰り返すことになったのだ。

ここでは、ある結果だけをしたためておこう。どのようにして、こういう結果が生まれたのかは、あとで詳しく書こうと思う。

 

< 中休みに書いておこう >
   40歳の時に神戸ファッションソサエテイー(KFS)の会長になり、43歳でテレビのワイドショーの司会者に選ばれ、46歳で建設会社の専務となった。

 学歴のないはずの私が、50歳で生徒数600人の高校を作り上げ、やがて豪州・パースに移住し、西豪州日本クラブ会長を二期四年間、全豪州の日本クラブ会長一期二年間務めた。

 豪政府公認の(NPО)社会福祉法人「サポートネット虹の会」を創立した。

そして、平成天皇、皇后から御所にお招きいただくことになるとは、母と再会を果たして時点でだれが想像できただろうか。

 人生には、だれも予測できないことが起こるのだから希望を失ってはいけない。

人生は、まことに不思議なものである。ここからはもっと不思議な人生を書いてみたいと思っている。