中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(99)

(99)
古川君のこと
 
責任を感じたという意味で、もっと厳しい思いをしたのは、古川君が
在学していた加古川の学校から電話があって、その夜、中学校まで
出向いたときでした。
教室に、先生と古川君とお父さんがいました。いちおうの説明を黙って
聞き終えた先生が「失礼を承知で質問します。本当に、高校卒業資格が
得られるのですね」
「そうです。今、ご説明した通りです」
「この学校がつぶれないという保証はありますか」
「私の生命をかけてもつぶさないようにいたします」
「現在、二名の生徒が決まっていると聞きましたが、古川君を入れて
三名しか生徒が集まらなければ、どうするのですか」
「たとえ一人の生徒でも開校します。どうか信じてください。責任を
持って古川君を預かります」
次いで、お父さんから質問がありました。
「この子は、身体が不自由です。いじめられないかという保証は
ありますか?」
「いじめがないという保証はできません。どんな生徒がどれだけ集
まるか分からないので、そのような保証ができるとは申し上げかねます。
しかし、私は古川君を身障者として特別扱いをしたくないのです」
その場で私は、身障者との交際についての過去の思い出を話しました。
身障者広狩氏のこと。
私が十八歳の時、二歳年上の広狩氏と淡路島の教会で知り合いました。
彼は、小児マヒのうえに、脊髄カリエスを患ったということでした。
そのために十五歳くらいまでは、ほとんど家を出たこともなく、小・
中学校にも通学した経験がないという、重度の障害を持っていました。
しかし、かれは非常な努力家で、小学校が乗る程度の大きさの自転車に
乗ることができるようになり、隣町の教会まで行けるようにもなりました。
私と彼が街を歩いていると、
「猿が歩いている」と小学生が石をぶつけたこともありました。そんな
ときでも彼は、悠然としていました。
その後、私が結婚し、彼が二十七歳ぐらいの時のことでした。
かれは、父親が建ててくれた家に住み、自活するために五00羽ほ
どの養鶏をしていました。不自由な身体には、かなりハードな仕事
でした。そんな彼に見合いの話がいくつかあったらしく、一度相談に
乗ってくれないかと言ってきました。
結婚をあこがれていた広狩氏に縁談があることは、友人の一人として
喜ばしいことですが、彼の障害の重さから、男としての役割が果たせ
るのかという心配もあり、もう一人の友人と彼を訪ねました。かれは、
笑って、「そんなこと心配ないよ」と言いました。そして彼は、
「僕に来る縁談は、目が少し弱いとか、右手が少し不自由とか、なんで
障害者ばかりなのやろうか。僕は障害者としか結婚できないのかなぁ」
と真剣な顔で質問してきたのです。
私と友人は顔を見合わせました。長い間、彼と親しく付き合ってきた
けれど、彼の心の中が全然分かっていなかったのです。
彼のように重い障害があって結婚できるのだろうか、というのが私たち
友人の心配事でした。その彼に、手が少し不自由な若い女性との結婚
話がきたことは当然喜んでよいものと思っていたのです。
「何で僕には、障害のある人しか縁談がないのや。障害のない人とは
結婚できないのか?」
と私たちを責めるようにいう彼の姿は、かなり興奮気味でした。
「君自身、障害者という意識は持っていないのか」と私は聞きました。
「持っていない」
「それなら、相手の女性も障害者という意識を持っていないのと違
うのか?自分のことだけを考えずに相手の側にたったら同じと違うのか」
彼は目に涙を浮かべ、何かをじっと耐えているように唇をかみ、やがて、
「そうやな……分かった。結婚するわ」
といったのです。
その後、結婚して子どもも二人生まれました。二人して養鶏業に励んで
いました。
彼の無類のがんばりには、私もどれだけ刺激されたか分かりません。
彼はまず、高校の通信教育を受講しました。当時、兵庫県の場合、加古
川東高校まで出向かなければなりませんでした。スクーリングにも参加
しました。彼は、六年か七年かかって卒業しました。
次に、彼は普通自動車の運転免許を取りたいと言い出しました。何度も
警察へ足を運んだけれど取り扱ってくれません。彼は、障害を持ってい
たら免許も取れないのかと怒りと悲しみを私にぶつけてきました。
彼と二人して、県警本部まで出かけました。そして、自分の車を所有し、
改良を加えれば試験が受けられることが分かったのです。
「くろがねベビー」、今でいう軽四輪のボックスカーです。中古を買い、
アクセルペダル、ブレーキペダル、クラッチペダルを彼の足が届くように
継ぎたして改良しました。
自動車学校のコースで練習しなければいけないのですが、自動車学校は
離れた州本市まで行かなければなりません。私がコーチ役となり、一般
道路で練習を重ねたのです。
彼はついに四輪免許を取得しました。しかし、免許を取って初めて一人
で運転した日、彼は、町役場の門柱に車をぶつけ、門柱を壊し、自分の
車も壊しました。町役場には、その翌日、皇太子様(現、天皇)がお越
しになられることになっていました。それで彼の父の怒りをかい、それ
から二度と車を運転することはありませんでした。しかし彼の精神力は
本当にたくましいものでした。
彼は四十歳で肺炎がもとで他界しましたが、私は広狩氏との交流を通
して、身障者と接するときにも特別扱いをしないようになりました。
 
古川君のお父さんから、「いじめられないという保証はありますか」と、
問われたとき、広狩氏との交流を話し、古川君を特別扱いしないつもり
ですと答えたのです。
お父さんは「分かりました、息子をお願いします」といわれ、三人目の
生徒が決まりました。