中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(23)

前回は、祖母に「おまえのことは嫁(伯父の)には言ってない」と言われて、
その日のうちに家を出て大阪に向かったと書いた。
15歳になる前から、私はこの家には居れないと思って淡路島をあとにしたものが、
20歳になって帰って来られたら、近所からは「後継ぎ」をどうするつもりだろうと思われるし、
伯父が見合い結婚する際に、先方に私のこと(存在)を言ってないとすれば、それは困るだろう。
やっぱり、ここには居れないんだ・・そう思って家を出たのだった。
 
祖父は口やかましい人で、注意と言うよりいつも「ことわざ」を口走っていた。
しかし、私は祖母に鍛えられたように思う。
小学校から中学生の間、祖母についてよく買い物に連れていかれた。荷物持ちのために。
その道すがら何時間も話す機会があった。祖母からは生活の知恵を学んだような気がする。
それが何かが思い浮かばないが、成長していくごとに、祖母に教わったことがらが思い出された
ものだった。
たぶん祖母は、私に自立させようとして、それらを教えていたに違いない。
 
祖父が死ねば相続の問題が出る。大した財産ではない。それでも後継ぎだと言われた
私が存在する以上は、問題となるだろう。
祖母は、敢えて「生前譲渡」という手段を行っていた。税金がかかるが、祖父が生きている間に
末の息子に生前譲渡」を行うことで問題化を避けたのだった。
どういうわけか、私がそれを知った。だからこそ「この家には居れれない」と15歳の時に
思ったのだった。
 
祖父はが亡くなる僅か10日前にわが家に来た。珍しいことだった。
「武志よ、お前の気持ちは、よ~く分かっている。よ~く分かっている」そう言い残して
家の中にも入らずに帰った。そしてしばらくして脳出血で倒れて亡くなってしまった。
多分、祖母がやったことを後で知ったのだろう。私のことが気になっていたのだろう。
 
その日から5年ほど経って、祖母がわが家にやってきて言った。
「武志よ、おばあちゃんが死んだら、おじいちゃんの時のように、豪華で派手な葬式をして
くれるか。お前にしか頼む人はいないから。お前ならちゃんとしてくれるだろうから」と。
 
その後、祖母は脳出血から5年間以上も寝たきりになった。
その祖母の介護を伯父の嫁さん(私と同い年)は良く務めた。すばらしい嫁さんだ。
この嫁さん(今ではみんなと同じように、姉ちゃん・・と呼んでいるが)があってこその
家となった。
この姉ちゃんがいるからこそ、私は過去の嫌な思いを全部断ち切れた。
今日、これから「祖父の50年回忌」と「祖母の33回忌」が行われる。
今日はお彼岸だ。
ライオンは、子供を千尋の谷から突き落とすと言う。
可愛い子には旅をさせろと言う。
この二つが揃ったからこそ、私の今日がある。
祖父母に、有難う!!と御礼を言いたい。