中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(7)

 村上看板店では2年間お世話になったが、ここを去る時がきた。
私は2歳半の時に母親と別れてから一度もあったことがない。
母親のことを聞くことはタブーでもあったので、誰にも聞けないから、消息さえ分からない。
母親のことを思わない日はなく、親子で歩いている風景の中に母を想像していた。
やさしそうな女性の中に母を思い描いていた。私の母は、どんな人なのだろうという思いは
募るばかりだった。
 ある月の休みの日に、今里に住む伯母を訪ねた。普段から厳しい伯母さんであり、会えば小言しか
言われないというイメージがあったので、長らく会ったこともなかった。その時はなぜか泊って行けという。
翌朝、食事をしながら「お前のお母ちゃんはどうしているのかな。省線(現在のJR)から見ると焼け残って
いるようだったけど・・。」という。母親の話が出るなんて、これまでになかったことだった。
 伯母の家を出た私は勤め先に、おばさんが病気でと嘘を言って休みをもらった。
 近くの電話局(今はなくなったが)に行き、神戸市の林田区を探してもない。林田区は須磨区
合併していたことを知った私は、須磨区役所に電話をかけた。
 「瀬古芳江」と言う人探しているのですが」と。そんな人探しは戦後多かったものだ。
それでも、普通ならそんなことでrは分かりもしないが、母親の旧姓である「瀬古」という名が珍しかった
と言うこともあって、「この名前は珍しいですから、たぶん間違いないでしょう」と祖父の住む家を
教えてもらい、その日に祖父を訪ねた。