中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(8)

 私流生き方と言っても、無茶苦茶変わった生き方をしてきたわけではない。
一言で言いかえるならば、逆境にあっても絶対にくじけない。もうあかん・・という立場に立っても
あきらめない。無から有を生じさせる(金がなくてもできる)。悪いことのあとは良いことがあると
信じる。悪いことと思うことの中から上昇気流を掴みとる。多くの人たちと接して、自分に出来る限りの
愛を注ぐ。
カッコよく言えばそれが私流の生き方かなと思う。
それをどういう形で、どういう経過を経てやってきたか、生きてきたかを、少年期からの想い出を
たどって書いている。
 2歳半で別れた母親を探し求めて18歳になったある日のこと、(7)で書いたような経過があり、
私は神戸市に行った。当時は大阪に較べて神戸の地図に詳しくなかったので、須磨区海運通りを
探し当てるのに苦労した。海岸通りなら知っている人は多いが、海運通りと言うのをほとんどの
人が知らなかったからでもある。
 目的の家に着いた時は暗くなっていた。
新聞配達店へ行き 「この辺りに瀬古さんと言うお家をご存じないでしょうか」 と尋ねると
「前のお家やがな」と言う返事。
向かいの家の玄関を開け「今晩は、瀬古よしえさんの家はこちらでしょうか」と聞くと・・・・
家の中から大きな声で 「武志か!」と言うではないか。それは祖父だった。
 それにしても、母の名前を言っただけで「武志か」と直ぐに答えてくれた祖父の気持ちが
嬉しかった。長い間、ずっと私のことを気にかけていて下さったことが分かって、天涯孤独
という気持ちでいた私に、ここにも心にかけて下さる人がいたということは、何事にもまして
嬉しかった。
 お母ちゃんはな、今京都に住んでいるから電話して読んでやるという。母を待つ間、祖父母と
これまでの18年間のことを話し合った。
 2時間も経たないで母が姿を見せた。母に会うまでは、映画のように抱き合って泣きじゃくる
シーンを考えていたが、現実には淡々とあっさりしたものだった。それは母のキャラクターの
せいでもあろう。この時の印象が、その後の母との付き合い方にも影響して行った。