私流生き方と言っても、無茶苦茶変わった生き方をしてきたわけではない。
一言で言いかえるならば、逆境にあっても絶対にくじけない。もうあかん・・という立場に立っても
あきらめない。無から有を生じさせる(金がなくてもできる)。悪いことのあとは良いことがあると
信じる。悪いことと思うことの中から上昇気流を掴みとる。多くの人たちと接して、自分に出来る限りの
愛を注ぐ。
カッコよく言えばそれが私流の生き方かなと思う。
それをどういう形で、どういう経過を経てやってきたか、生きてきたかを、少年期からの想い出を
たどって書いている。
2歳半で別れた母親を探し求めて18歳になったある日のこと、(7)で書いたような経過があり、
私は神戸市に行った。当時は大阪に較べて神戸の地図に詳しくなかったので、須磨区海運通りを
探し当てるのに苦労した。海岸通りなら知っている人は多いが、海運通りと言うのをほとんどの
人が知らなかったからでもある。
目的の家に着いた時は暗くなっていた。
新聞配達店へ行き 「この辺りに瀬古さんと言うお家をご存じないでしょうか」 と尋ねると
「前のお家やがな」と言う返事。
向かいの家の玄関を開け「今晩は、瀬古よしえさんの家はこちらでしょうか」と聞くと・・・・
家の中から大きな声で 「武志か!」と言うではないか。それは祖父だった。
それにしても、母の名前を言っただけで「武志か」と直ぐに答えてくれた祖父の気持ちが
嬉しかった。長い間、ずっと私のことを気にかけていて下さったことが分かって、天涯孤独
という気持ちでいた私に、ここにも心にかけて下さる人がいたということは、何事にもまして
嬉しかった。
お母ちゃんはな、今京都に住んでいるから電話して読んでやるという。母を待つ間、祖父母と
これまでの18年間のことを話し合った。
2時間も経たないで母が姿を見せた。母に会うまでは、映画のように抱き合って泣きじゃくる
シーンを考えていたが、現実には淡々とあっさりしたものだった。それは母のキャラクターの
せいでもあろう。この時の印象が、その後の母との付き合い方にも影響して行った。