中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(6)

 日本ケースという大変恵まれたところに1年間お世話になったが、事情があって近くの
看板屋さんに紹介していただいて住みこむこととなった。日本ケースから歩いて5分の
ところで、親方同士が町内会の役員同士ということだった。
村上さんという当時すでに70歳を過ぎた方が親方で、息子が二人いた。長男が脊髄カリエス
で不自由な体ながら仕事をとり仕切っていた。次男は「新宅さん」と呼ばれ近くの清水谷高校の
校庭の前に彫刻などの工房を持っていた。
 ここでは3人の住み込み店員がいた。もちろん他の二人は私の先輩にあたるから、先輩への
礼儀がうるさい。
 しかし、何よりも親方との接し方をうるさく鍛えられたものだ。ここで鍛えられたことが私の
その後に大きな影響を与えたことも確かである。
 ここでの食事のことはなにも記憶に残っていないと言うことは、日本ケースとは縁でいの差があった
と言うことだろうと思う。なにしろ60年も前のことでほとんど覚えていない。
 朝起きると、親方の座敷に行き、両手をついて朝の挨拶をする。昼間は仕事場である板場で過ごすか
外での作業ととなる。ここの看板屋さんは、その辺りの看板屋さんと一味違っていた。一言で言うと
(格が違う)と言うことである。一目おかれる存在であり、格調の高い仕事が誇りでもあった。
 最も違う点は、看板にかかれる文字の美しさで、他の追従を許さない格調高い文字だった。
そして、もう一つは欅(けやき)の板に彫刻を施して漆(うるし)を塗って仕上がる看板であった。
この彫刻は薬研(やげん)彫りと言われる技法である。
 次男は、美大卒で当時とても有名だった洋画家の額縁を一手に引き受けていた。四隅に巨大な
彫刻をはめ込んだ豪華な額縁だった。次男の工房では、額縁立ても作られていて、次男に請われて
私がしばらく手伝ったこともあり、ここでは電動糸のこを操って桜の木を切ったいた。
 本家である看板では、看板にペンキを塗る仕事が主だったが、いち早く私の技術が認められた。
また、看板に字を書く前に、アオタケというものでレイアウトを書きこむ、アオタケは消えてなくなって
しまう。レイアウトは、親方がするのだが、ある時からすべてのレイアウトを任されるようになった。
今でもレイアウトにはある程度の自信があるが、当時から少々才能があったようだ。
 いつの間にか兄弟子より認められたのは良いが、兄弟子たちから厳しくしごかれたものだ。
夜になっても2階の部屋に戻れるわけではない。まず夕食後は銭湯に行く.その場合も親方の
部屋に行き「お風呂に行かせていただきます」と挨拶をしてから出かけるのだ。もちろん銭湯から
帰ると「ただ今戻りました」と両手をついて挨拶する。
 銭湯から帰っても10時までは部屋には戻れない。仕事場でもある板の間で、何かしら勉強する
ことを義務付けられる。
 10時になると「お先に休ませていただきます」と両手をついて挨拶をする。
 休みの日は、毎月き一度だけ。それなのに私は毎週日曜日の午前中の休みをもらっていた。
日本ケース当時から、日曜日には教会通いをしていたのだが、この看板屋に来てからは、それが
出来なくなった。
 毎夜毎夜、私は看板のペンキ塗りをする。来る日も来る日も言われていないが、夜なべをした。
そして、ある日曜日の朝、恐る恐る「教会へ行きたいので午前中お休みをいただけないでしょうか」と
伺いを立ててみた。親方は「しようがないな」と言いながら認めて下さった。
 翌週から、毎週日曜日の午前中の休みを勝ち取ることが出来た。もちろん、それ以上の働きを
していたからこそ、こんな例外が認められたのだ。
 やることをやってから要求する。これが私の生き方の一つでもある。
 認めてほしかったら、その前にやるべきことがあるはずだ。結果は付いてくる。