中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(104)私を守ってくれたのはだれなのか

      《L・D研究の現状》

 (私がこの原稿を書いたころと現在ではいくらかの違いがあります。現在は何もかもが発達障碍児というカテゴリーに含まれていて、世の多くの人たちは発達障害という意味を取り違えているようにも思います。 発達障害という言葉の中には、障害児という意味を含めての差別的な響きがあるようにとらえている人が多いようです。

 はっきりと言いますが、発達障碍児と言われる子供たちの多くは正常な大人に育つ可能性の多い人たちです。 差別的な目で発達障碍児を見ている人は反省すべき出だと考えております)

 

日本ではL・Dについての研究は大変遅れております。アメリカでは、1970年に L・D研究が認知されているのに、日本では、1990年にやっと文部省が調査研究を始めると発表したばかりですから、すでに20年も遅れていることになります。 しかし、かなりの人が研究を始めています。本書で参考引用させていただいた東京芸術大学の上 野一彦先生とか、武庫川女子大学の小関康之先生らは、かなり以前からL・D研究を始め、また相談室などを持っておられるので、問い合わせをされてはいかがでしょう。

 L・Dは学習障害と訳されておりますが、知恵遅れではありません。知能は高いのに多動で落ち着きがなく、集団生活や授業などになじみにくい子どものことです。そして、L・D児の問題で忘れてはなら ないことは、L・D児の親の大多数が情緒障害に陥っているといわれていることなのです。ですから、 自分の子どもが L・D児ではないかと心配される方は、親子で相談室に行かれることをおすすめいたします。 しかし、L・D研究者はまだほんの一握りしかいません。文部省のL・D研究の立ち遅れが、現場の先生方の対策の遅れともなっております。現場の教師の間にL・D児への認識が浸透するまでには、あと二十年の歳月を必要とするでしょう。それさえ難しいかもしれません。教師が、認識を深めようとしないと、同じことが繰り返されるでしょう。  

 まわりの大人たちが「悪い」と言っているのだから、悪いことなのだと思って

いるだけであって、子どもはそのことに 「問題」 を感じていないのです。

   「問題」だと思うのは大人の側なのです。

子どもは、何らかの欲求を満たすために行動しているだけであって、正しくない行動をしようとしているのではないのです。子どもが欲求を満たすためにやっていることが、親にとっては「悪い行動」になってしまうだけなのです。

大人は子どものしていることを「悪いこと」と見る前に、なぜこういうことをするのだろうかという心のゆとりを持って、子どもを見守ってほしいのです。

小学生、中学生という義務教育の場にいるはずの子どもが、情緒障害児施設などに預けられる、というケースがあります。

不登校とか、家庭内暴力とか喫煙などのために、そのような施設に入れられるのです。

そして、そこでは教育の名を借りたシゴキ、虐待がしばしば行われます。暴力で矯正することも教育だと認める人たちがいるわけです。

その施設の教師による暴力で、子どもが傷つけられ、死に至らしめられることがある場合には、それにかかわった親、教師、校長、教育委員会などの人たちの連帯責任ではないかと思います。

 なぜ簡単に子どもを裁くのか、私には分かりません。小さい頃から叱られ続け、裁かれ続けた子どもは、 親や教師を信じなくなります。 また成長の遅い子どもは十五歳になっても、場合によっては十八歳になっても、精神的にはまだ十歳前後のところにいることが多いの

です。身体は一人前に大きくても、判断力がともなっていないのです。 学習不振の子も、精神的に幼かった子も、いつかきっと成長するのです。そのことを私は信じています。

  だから神戸暁星学園の生徒たちは立派になっていくのです。 子どもを信じないで、どうして子どもが育つでしょうか。私はこのことを強調したいのです。

何度も書きますが、生まれた時から悪いことをする子どもはいないのです。 悪いことをしているのは、大人なのです。