中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(92)私を守ってくれたのはだれなのか

  《事故は日常的・生徒たちはどんどん成長する》

サッカーボールをけりそこね、後頭部をグランドで強打して救急 車で運ばれることもある。ケンカで顔面や頭部にケガをして、念のためにスキャンで検査するなど言うことは日常的に起こりうる。

そういう事故に備えることも大切だが、必要以上に恐れたりすると、生徒の心を傷つけることになる。それほど心配はいらないのだ。 なぜならば、新入生たちは一学期を終え、九月にもなれば目覚めてくることが分かっているからでもある。

入学してくる生徒は、平均して3〜5年ほど心の成長に遅れがあり、それだけ幼い面を持っていた。 全体の2割ほどのやんちゃな生徒は比較的意識が高いのだが、なかには善意の判断力が弱い生徒や危険予知能力に欠けている場合もある。

彼らにとって、最も重要なことは 「このクラスで、この学校の中で誰が一番喧嘩に強いのか」 ということなのだ。 それを競う中で、多くのドラマが生まれる。

多くのドラマ的な争いがある中で、思いもよらない結果が生じるのだが、経験したものでなくては 「子供の世界」 は理解できないだろう。

あえて子供の世界と表現したのには、訳がある。 猿山のボス争いにみられるのと同様の、ドラマ展開が起こるのだ。 あっという間に、ボスが入れ替わるのを何度も見てきた。 単純な世界なのだが、多くの教師を含める大人は(暴力の世界)と勘違いしてしまう。

  若い生徒たちのそれぞれが己を知り、己の立場に気づくまでに、どうしても最低6ヵ月から一年は必要なのだった。 入学時に強いものが勝ち残る確率は低いように思う。 生徒たちが、民主的にバランスを作っていく。 だから、教師たちが過剰に心配したり、学則で裁いたりすると、生徒たちは成長しないだけでなく、反発して自分の成長まで止めてしまうことになるのだ。

腕力だけで支配できる社会ではないことを、生徒たちが証明してくれる。

 生徒を信頼すること、彼らの可能性を信じてこそ、その結果も知ることが出来るのだ。 学校規則で縛り上げ、規則に従って生徒たちを裁くことによって、教師ではなくセンコーと呼ばれるようになる。

  教師も生徒も一個の人間なのだからお互いに対等の立場なのだと私は思う。親と子も対等なのだ。

対等であっても立場が違うだけだ。 立場が違うだけで裁いてはいけない。殴ってはいけないと思うのだが、大人の方が勘違いしているのではないだろうか。 

    《身体障害者への思いやりとは何か》

この当時、須磨校舎には下肢に重い障害を持つ生徒が二人いた。 当時の連携校の職員組合から障害者受け入れに反対する声があった。 重い障害者を入学させることで発生するかもしれないトラブルを危惧してのことだと思う。

私にも一つだけ心配があった。 古いビルを改装したこの校舎は、階段が狭かったのだ。

幅が1・8メートルほどあればいいのだが1・2メー トルしかなく、階段を上下するためにすれ違う時に注意しなければならない。

重い下肢障害を持つ生徒がゆっくり階段を昇り降りしている時、 他の生徒が、乱暴に走って昇り降りすると、少しでもぶつかれば、 生徒が階段から転げ落ちてしまわないかという心配だった。

元気あふれる生徒たちに、身障者への気遣いを強要することは反発を招くだけだとおもい 、静観することにして、彼が階段を上がり降りする際には、階段下で見守っていた。

結果的には、4年間で 一度もそういう事故は起こらなかった。

彼が階段を昇り降りしている際には、 他の生徒たちは、彼のために鞄を持ってあげるなどの協力を惜しまなかった。 生徒たちは、指示されなくても、思いやりの心が備わっていたのだ。

       《生徒に学ぶ姿勢》

   暴力的に見える生徒たちも、彼らなりに自主的に問題解決をしているし、そういう生徒が意識的に弱い生徒たちをいじめるということもない。

 それぞれが、自分を見つめなおし、少しずつ成長を見せていく。大人たち(教師も親たちも)は、 

彼らの成長をやさしく見守ればよいのだと思っている。 教師も親たちも子どもを観る基準に問題があるように思える。

  彼らがどうして「落ちこぼされたのか」を考えるべきなのだ。 文部省(文科省)の定めたカリキュラムについていけなかったから、落ちこぼされたのだった。 彼らを見捨ててカリキュラムを言う列車はどんどん進んでいく。

彼らがすでに列車から転げ落ちていることにだれも配慮することもなかったのだ。忘れられた存在だったのだ。 忘れていたのに「落ちこぼれ」などと人々はいう。

   彼らにもっと学ぶべきなのだと私は思う。 時間をかけて彼らを見守れば彼らは立派に育っていくではないか。 裁くことはやめよう。 私が声を大にして叫びたいのはこのことなのだ。