中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(59)私を守ってくれたのはだれなのか

  《言葉にできぬ悲しみ》

 悲しみというか、私の身体からすべての力が抜けていくかのようだった。とても虚しさを感じて、気力まで失われてしまった。親の不注意で、二人の命が失われたのだった。

 そんな折も折、妻と義母が話していることを聞いてしまった。

義母が『いづみが赤ちゃんの時、練炭中毒させたことがあっただろう』とはなしている。妻と二人だけが知っている事実の話だったが私には秘密にしていたらしい。

 寒い冬の日に、七輪の練炭で暖を取っていたのだろう。練炭は全体に十分に火がついてから室内に入れないと、一酸化炭素中毒を起こしやすいものだ。

 そんなことがあったのかと、怒りが爆発しそうだった。不注意で三人の子供の命が失われたのかと思うと、余計に腹立たしかった。

 いずみは可愛い子供だった。よい笑顔の子供だった。成長が遅れていることに気付いて病院を駆けずり回った。 大阪大学病院まで行ったこともある。

 いずみの病気の(脳性小児まひ)の原因が幼児の時に練炭中毒させていたことが原因だっととは許しがたきことだった。

わたしにはすべて内緒にしていたことも腹立たしかった。

  そういうことがあってから、二人の仲はぎくしゃくし始めた。妻は本来はとてもヒステリーで、結婚する前に母親と、人々がいる前で傘を振り回してけんかして怪我をしたこともあるという。義母も同じような性格だったからだろう。

 交際していた時に、その話を聞いた時、この人と付き合うのをやめようかとおもったものだ。奥山家の人たちで、ヒステリーの人は一人もいなかったのでそう思ったのだが、よく考えれば、その時にやめていれば素晴らしい娘たちが誕生していなかったのだから、一人の人間の誕生とは誠に摩訶不思議なものである。

  <妻が家を出ていく>

 それからどれほど経ってからか、よく思い出せないが、妻が「家を出ていく」と言い出した。毎日いうので理由を聞いても言わない。佐野の伯父に事情を話し、本人から妻の言い分を聞いてやってもらえませんかとたのんだ。伯父も何度か話を聞いてくださったが、よくわからないという。

 そんなある日に、本当に家を出て行った。書いたものもない。探しようもない。心やすく泊めていただけるような所なんてないはずなのだ。

 朝早くから、従業員を迎えに行き、仕事を進めていかなくてはならない。妻が指示していた部門については古参の従業員を当て、それぞれに役割を持たせることで、スムーズになった。

以前からも妻に対して、この方式でやれば、毎日ずっと仕事場で働かなくてもやっていけるよ、産婆さんの言うとおりにしなくちゃだめだと言い続けていたのだった。妻に対して言ってきたアドバイスの内容を実行に移したまでだが、仕事には、妻の不在は関係なく順調だった。

 どこかに一泊して帰ってくるのだろうと思っていたが、帰って来ない。やはり心配なのは、子供たちのことだった。

 戻ってくれば、この体制を維持して、妻を仕事から解放してやろうと思っていたが、2日目も戻ってこない。

 さすがに3日目も戻らなかったので、心配は増すばかりだったが、腹立たしくもあった。仕事を放りだすわけにはいかない私の立場をよく知っているのに、理由も何も言わないで、この一か月間、毎日のように出ていく、出ていくと言い続けて、本当に出て行ってしまった。

  じっくり考える余裕もなかった。時間と仕事に追い回されているだけだった。5日目に戻ってきたが、「人をバカにしやがって」という怒りが強くのこった。

 新しいシステムでやっていこう、仕事にはあまり手を出さずに、もっと家庭を大事にしてくれと懇願した。

 しかし、翌日から、もとの黙阿弥状態に戻ってしまった。とにかく、家庭的な用事はきらいで、仕事がなによりも大好きな人だから、わたしの言うことは耳に入らないようなのだ。 これを機に、二人の関係は崩れていった。         

  初めてのデートの時、重箱に詰めてきた料理を、すべて私が作ったのよという彼女の言葉に、家庭的な人だな~とおもったわたしの判断が間違っていたのだろうと思うほかない。夫婦としては、ぎくしゃくしながらも、仕事は順調だったが、どちらも辛抱していたのだろう。

  ある日にそれが爆発した。けんかの元のいきさつはとっくに忘れているが、妻が

『ここは、わたしがいるからやれているのよ』と、これ以上はない言葉で、プライドの高い私を冒涜し、続けて私にむかって、あなたがいなくともやっていけるわよとヒステリックに叫んだ。

 たいていのことは許せるわたしだが、自分が否定されると辛抱が出来ない性格でもあった。

祖母に、「おまえのことは、栄治の嫁にも、嫁の実家にも言ってないのだよ」という一言で即座に家を出たように、わたしを否定する相手とは一緒にいられないというのが私の性格なのだろう。

子供の時から、わたしの存在そのものを否定され続けてきただけに、自分を否定されると我慢がならない。祖母の場合は、長らく私を育ててくれたという恩義があるが、妻とは対等の立場でやってきたのであり、ここまでやって来られたのは、わたしの努力だと思っているだけに、許せない気持ちが高まり

『そうか、そう思っているのなら、一人でやってみろ』と言って、実印も通帳もすべてを置いて、百万円だけを持って家を出た。

 2日後に後悔し、思い直して電話をかけたが

『恵美も、あんなパパはいらないと言っているのだから、帰って来なくていいよ』という。恵美が自発的にそんなことを言うはずはない、そういうように仕向けたのだと思いながらも、自分が情けなくなって半日間泣いていた。

 食べるために、あっちこっちで働きながら、いま一度じぶんの力で立て直してみせるぞと心に誓った。これまでの数年間を振り返り、悔しさと情けなさがあふれてきたが、なによりも子どもたちと離れた自分が許せなかった。

一生の不覚という言葉があるが、これほどの不覚はないだろう。どうやって子供たちに償えばよいのだろうか。なんども戻ることを考えたが、わたしを否定した人と一緒に住めるとは思えなかった。人生を誤ってしまった自分に責任があるが、許せなかった心境に悔いはない。 彼女も別の人と結婚していればもっと違った人生になったことだろうにと思う。

  彼女は初婚ではなく私とは再婚だった。 初婚の時に子供を産んでいたが、原因不明の病気で亡くなったらしい。彼女も私を選んだことが間違いだったのだろう。わたしは、無責任にならないように、子供たちのためにも今後の仕事の面では支えてやろうと思っていた。

  どうやって自分を立て直す道を作るか、一から出直す以外にすべはない。子供たちに、なんとか認めてもらえるような人であり続けたい。それがすべての基本だった。