特別お題「わたしがブログを書く理由」
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副題 (ブログで命が繋がっている) 中原武志
私は、なんのためにブログを書いているのだろうか。
人それぞれに、思いは異なるだろうが、私の場合は何だろうか。
書き始めたころと今と、その目的が違っていることに気付かされる。
最初は、私の多彩な人生の中で得た思いのたけを、ブログを通して多くの人たちに届けたかったように思う。
両親がいないために高校進学もできず、15歳で住み込み店員として自立の日々が始まって、農村伝道神学校入学、経理代行サービス、養鶏場経営、縫製業経営、デザインルーム経営、神戸ファッションソサエティ会長、TVワイドショー司会者、建築会社専務、神戸市での高校創設。
そして豪州への移住、豪州日本クラブ会長、社会福祉法人.サポートネット虹の会会長、2019年には、平成天皇、皇后と御所での対面という幸せを頂いた。唯一の自慢でもある。
70歳のとき、がんを告知されたのを期に帰国し、がん患者会を二つ立ち上げ、無料がん電話相談を開設して、多くのがん患者に助言をし続けることができた。
がん患者会では、兵庫県のがん患者会としては最初の「がんサロン」を毎月開催し、大きな規模の「がん患者美術展」を5度開催した。
こうして、ざっと読んで頂いて、この人はどんな人や、けったいな経歴だなと思う方もおられるでしょう。
このよう経験を踏まえて、ブログの上でみなさんと交流したいと思って随分前にブログを始めた。
<ブログに込める思いが変化した>
だが高齢になると、あちこちが体調不調となり、高齢者が抱える諸問題を「歳は取りたくないもんじゃ」を連載したこともある。
高齢者が読んでくれなくても、高齢者を抱えるご家族の方に読んでいただけたらという思いもあった。
その頃から、自分自身の生き甲斐としてブログを書くように変わってきたように思える。
マンション住まいで、住民たちとの出会いも少なくぃ。
その上に80歳のときに「肺静脈塞栓症」を(私がたまたま居たから見つけることが出来た)という名医によって発見され、その直後に、第1腰椎、第2腰椎と次々と骨粗鬆症のゆえの圧迫骨折が起こり、遂に第5腰椎まで、すべての腰椎が骨折し、人々と交流する機会がより少なくなって行った。
その間、激痛の日々が当たり前の生活となり、痛みに耐えるためにも外部と繋がりたいとの願いでブログを書き続けたのだが。
<ブログが命をつないでくれた>
第1腰椎の上にある胸椎が骨折した。
骨というものは折れて形が崩れても、数カ月間で硬くなるのだが、骨折部分が固まらないという病気になってしまった。
医師も手の施しようがないないと言う難病で「偽関節(ギカンセツ)」という。
偽関節の診断を受けて3ヶ月間で、60キロあった体重が43キロにまで激減した。激痛が続き、日々生きていることが辛く、この先はどうなっていくのかと不安だった。
そして、2021年3月23日の朝、立つことも座ることさえできなくなった。
そういうことも予感として持っていたので、ベッドを借りてリビングルームに設置してもらっていたが、そこに移動することもできず、2日間は隔離されたような状態で、とても寂しい日を過ごした。
そのときの経験から、寂しさを覚えると認知症の入口になるのだろうなと悟った。
後で調べるとやはり認知症になった人は、何らかの事情で寂しさを感じたことが発症の入口になったようだった。
3日目に、やっとこさでリビングルームのベッドに移ることができたのだった。
横向きにもなれず、TVの音声は聞こえるけれど、映像は見られない。
2日間、なにも食べられなかったが、リビングルームに移ってからも、僅か3分間も座ることが出来ないために、食べることが出来ない。
食欲もない。ひと一倍に食欲旺盛だったわたしが食欲がないことで、死が近いことを悟った。
ずっと以前から、僕が食欲をなくしたら、終りだと思ってね、と言ってきたものだった。
家まで往診して下さった主治医も、3分も居ないで帰って行った。
妻に、大きなサイズの服はもう着ることもないだろうから、内藤君(教え子)に頼んで始末しておいてと言った。
妻もわたしの死を予感したのか、びっくりするほど沢山の衣服を処分していた。
そんな状態になってからも、まだ家族にはだれ一人として、この状態を連絡していなかった。
寝たきりになって4日目に、孫娘から電話がかかってきた。
「愛ちゃん(3女)が、おじいちゃんのブログが3日間も更新してないのだけど、なにか知ってる?」と電話があったのでという。
事情を伝えると、三宮近くに住んでいる孫娘はすぐにやって来た。
その際に(健康補助食品)のチューブを5個持って来てくれた。
彼女が私のベッドに横たわっている写真を撮って家族に配信したことで、みんなが知るところとなった。
チューブを咥えて吸ってみると美味しく食べられた。寝たきり状態になってから、はじめて口にした(食品)だった。
孫娘の母親(わたしの長女)が、健康補助食品を1ヶ月分送ってくれたので、寝たきり状態になった私の食欲を取り戻すきっかけとなったのは補助食品だったと言える。
こういうものがあるということさえ知らなかったが、イザというときに食欲を取り戻すきっかけとなることを体験した。
写真を見た家族が次々とやって来てくれたが、だれもが、写真を見て(危篤状態)と察したのだろうと思う。
介護保険には、1年前に申請したが(要支援2)という認定だった。
寝たきりになる1ヶ月前に、見直し要請をし、調査員が来たが、寝たきりになった直後に(要支援2)のまま据え置きの判定書が届いた。
介護保険というのは、認知症優先のようで、わたしのように、テキパキと受け答えすると駄目ですよと、周囲から聞かされてはいても、呆けた振りなどプライドが許さない。
調査員には、明日にでもぶっ倒れても不思議ではない状態だと、念を押して伝えたつもりだが、本当のことを伝えても調査員には理解できなかったようだ。
介護保険とはこんなものだったのかと腹立たしい思いがしたものだった。介護保険の仕組みのこともブログで伝えたいと思った。
<妻への償い>
脊柱管狭窄症のために、痛みを持っている妻が、
私の身体を拭いてくれる。中腰で痛いだろうとベッドの上で気遣う。
妻の料理を少しずつ食べられるようになって気分的に生きている実感が湧いてきた。
娘たちが、介護保険の再認定申請に奔走してくれるて、要介護4の認定が決まったのは、最も辛かった初期ではなく、倒れてから1ヶ月半後だった。
寝たきりになって5日後、三女から電話があり「寝たきりになったなってもパパのブログは書き続けてね」という。
寝たきりになって、どうしてブログが書けるのだよというと、方法があるはずだよという。
そうか、ブログの更新をしなくっちゃと、孫達に来てももらい、タブレットで音声入力ができるように設定してもらい、顔の上にあるタブレットに向かって入力を始めた。
音声入力には誤変換がつきものだから、誤変換部分を指で訂正していたものだ…
三女の一言から、倒れてから6日目にブログ更新が出来たのだった。
ちょうどその頃、神戸新聞の記者が取材に来てくださった。
彼は、ずっと前に「歳は取りたくないもんじゃ」の連載を読んでくださっており、私の記事に関心を持ち、半年間分を遡って記事を読んでくださっていたようだった。そういう経緯があり、私が倒れてからもブログの更新を続けていることを記事にしたいと仰った。
地方新聞としては兵庫県下では4大新聞を凌ぐ発行部数を誇る神戸新聞に、私のブログ活動が、写真とともに大きく掲載されたのだった。
<奇跡の再起?>
偽関節のために立ち上がっても、体が揺れる、めまいがする。背中の中心が固定されていないためだった。
私は、骸骨のような自分の身体をどうすれば立ち直せるかとベッドの上で考えた。
可能な限りベッドの上で筋肉を作ろうと動いた。
気力が、痛みや苦しみを超えて、少しづつ体力が上向き始めた。自慢だった(食欲)を回復させ、次第に元気を取り戻していった。
昨年(2022年に入って)少しづつ歩けるようになった。
介護者に週に二度身体を拭いて貰っていたが、シャワー介護に変更してもらい、シャワーも浴びられるようになった。
去年の中程に私から申し出て、折角取得した要介護4の認定を下げてもらった。税金を無駄に使いたくなかったからだが、珍しいケースだと言われた。
自立するためには、介護されていては甘えてしまう。何としても自分自身で自立しようと頑張り続け、激痛を抱えながらも、あるけるようになった。
昨年末に、妻が第4腰椎骨折になり、激痛を味わうことになった。
腰椎骨折がこれほど痛いものだと知らなかったという。
眼の前で8年間、激痛で苦しんでいた私を見てるじゃないかと言うと、そんなに痛そうに見えなかったというから、痛みというものは経験しないとわからないものらしい。
昨年末から、もう9ヶ月経つのに妻の゙骨折部分は未だ硬まっていないが、偽関節ではないらしいのが救いだ。妻の場合は、脊柱菅狭窄症による神経痛もあるから複雑な痛みがあるようだ。
私は、妻が家事一切ができなくなった去年末から、洗濯、掃除、料理を9ヶ月間続けている。
激痛の中で、今もガンバっている。
女性は脊柱管狭窄症になりやすい。その原因はキッチンでの立ち仕事だと思われる。
世の女性たちは、掃除、洗濯、料理と大変な仕事をやっているのだということを、いま実感している。
これまでの妻の支えに感謝して、今度はわたしが妻を支えようと頑張っているのです。
妻を支えるために、神様、仏様が私の命を繋いでくれたのかもしれないとも思うが、わたしは、ブログを書くことで命をつなぐことができたのだろうと思っている。
だから、拙いブログを支え続けて下さった読者の皆さま方に心から感謝申し上げたい。
ブログで支えられ、命をつなぎ、あと1ヶ月後には89歳となる。
最近は、元気をもらっている大谷翔平選手のことばかり書いておりますが、近いうちに(孫に設定してもらい)日々の料理を写真掲載で紹介したいとかんがえています。
50歳のとき、これからは自分のためだけではなく、人のために生きると誓ったことを実践しながらも、多くの人たちに救われている私です。