中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

お題の「これまで生きてきて死ぬかと思った瞬間」

お題「これまで生きてきて「死ぬかと思った」瞬間はありますか?身体的なものでも精神的なものでも」

 このお題を考えた方の、ご本心が分かりませんが、死ぬかもと思ったことは何度か経験しました。

 若いころの「死ぬかと思った」瞬間はあとで考えると大したことではありませんが、高齢になると、それが目先に突き付けられた刃のごとくに鮮烈でもあります。

 まず70歳になったとき「前立腺がん」を告知され、手術ができない状態にまでなっていたことを知ったとき、ああこれでお終いかと思いました。

そのころは豪州・パースに14年間滞在していた頃で、それを機に日本に帰国いたしました。幸いにも命を失わずに生き延びております。

 次にちょうど80歳になったとき、歩くのも辛い状態になったが、当時かかりつけ医の医者はヤブ医者で、わたしの真剣な訴えが理解できず「喘息の悪化」だと決めつけていて、それでも苦痛を訴える私に、それじゃ検査しましょうとCТ検査をして「ほら、きれいでしょう、心配いりません」と言ったのです。医師はひょっとして肺に転移?かと思ったのでしょう。

 たいていの医師は、患者が持っている病歴に関わるものに注意が行ってしまうものです。世界的に有名な「そのとき医師はどう考えるか」という著書に書かれていますが、多くの誤診はこのようにして行われるものです。

 その検査から十日後に、シャワーから出てきた私は倒れこんでしまいました。翌日、物置からものを取り出そうとして、またも倒れこんでしまった。

かかりつけ医ではない医師にその旨を伝えると「直ぐに神戸労災病院へ行ってください、手配しておきますから」とおっしゃった。

 労災病院で検査して病名が判明した。医師は「たまたま私がいたので見つけられたのですよ」見つけるのが難しい病気なのですと。

 病名は「肺塞栓症」でした。肺静脈の半分が詰まっており、もう少し遅かったら死んでいたでしょうと言われた。その時から今まで、ずっと酸素を吸入してているのです。身障者手帳も持っている。

 同じ年に、第一腰椎の骨折が起こった。瀬戸内寂聴さんが同じ時期に同じ痛みを味わい、「月刊・文藝春秋」に、『この世に神も仏もあるものか』という痛みを味わったと投稿されていた。耐えられないほどのすさまじい痛みだった。

 その後、第2、第3、第4、第5腰椎が次々と骨折し、2021年には、第1腰椎の上にある胸椎まで骨折し、その骨折部分が「偽関節」と言われた。偽関節とは、折れた骨が普通は曲がりなりにも固まるのだが、骨が固まらない(原因は不明)ものなのだ。

 痛みはひどくなり、激やせが始まり、座ることも出来なくなり、食欲が消え、ついに寝たきりで「要介護4」という、うれしくない判定を受けた。

 在宅訪問医も私の死を予感したようで、妻も同様だったようだ。

わが手で触る肋骨は学校の理科教室にあるもののようで<骨皮筋衛門>状態であった。

 トイレに歩行器を頼りに行こうとしても偽関節部分がぐらぐらして眩暈がする。

もうおしまいかとなんども思った。

 ベッドの上で起死回生を考え、偽関節部分の周辺の筋肉を鍛えれば何とか起き上がれるようになるのではと、考えた。

 詳しいことは省く。2022年12月に妻が第4腰椎骨折して、痛みと闘うことになった。その時から現在まで、わたしが洗濯もし、すべての料理も私が作っている。

介護士は「奇跡的」だと言ってくれるが、いまも生きている。あと1か月半で89歳になる。

 なにを書きたかったかというと、だれもが老いるということ。そして70とか80とかの節目に、なにかの異変が起きる可能性があると思えること。だから、それに備えて用心しましょうということ。

 医師は、病歴にこだわり、幅広く診ることが出来る人が少なくなってきているので、自分の身は、自分で守りなさいと言いたいのだが、医療によってここまで生かされているというもの事実である。

 いま、目の前で私に出会った人は、お爺さんだなと思うだろうが、こんな病状を抱えているとはだれも気がつかないだろう。

 こうして、ブログを毎日数編かけるというのも幸せなことだと思っている。多くの読者のおかげでもある。 大谷翔平選手に励まされて生かされているような気もしている。