中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

あの時、大阪城が皇居に決定していたら・・

 今日つまらない「やすし」ギャクを書いたのですが、

★を8個もいただきました。やさしい読者の方に感謝します。

ということで、今回は大まじめな話をしようと思います。

ヤスシギャグも、どんな時でも楽しいことを考えましょう!

という意味で書いたのですけど・・。

 さて今日は「即位の礼」が皇居(江戸城)で行われること

から、大阪城のことに思いを馳せたというわけです。現在の

皇居と大阪城を見比べると元・江戸城の方が大きく見えますが、

じつは大阪城の方が規模が大きかったのです。それはそれは

広大なものだったのです。だからこそ家康は10年以上もかけて

大阪城をおとしたのです。とても攻めきれないと考えたから

でしょう。そして兵力で大阪城を攻め落とすより知略でおとす

方法を考え出したのだと思います。外堀を埋めさせ内堀も埋め、

はだか同然になった大阪城を攻め落とすには一日でよかった。

 あの「鳥羽伏見の戦い」のときには、将軍・徳川慶喜大阪城

いたのだが、錦の御旗を掲げた薩長に半日でやぶれ、慶喜は大阪の

天保山に逃れて停泊し打ているはずの幕艦に乗ろうとしたが闇夜で

見つけられなかったので、米国の軍艦を訪ね、その庇護のもとに

一夜を明かし、翌朝に幕艦の開陽丸にのって江戸に逃げ帰ったの

でした。維新後も悠々自適に一生を送った慶喜は、大阪城をすてて、

徳川の天下も失ったのだった。

 維新のあとで帝都をどこにおくかが議論され、大阪城を皇居

とする案が、ほとんど決定する寸前だったという。もし、大阪が

帝都になっていたら、どんな大阪になっていただろうか、江戸は

どうなっていただろうか・・と、興味深い。

ところで、江戸城の石垣は内からみれば外観ほど美しくはない。

二重橋と言われるところの(本当は二重ではない)正門から入り、

すぐ左に宮殿があり次いで宮内庁がある。それからずっと奥に

お住まいの御所があった。車だが、長い距離に感じたのは緊張感

のためだったかもしれない。ただ、どの辺りになるのかはわから

ないが、内からみる石垣がごつごつしていて美しくないなと感じた

ことだけを覚えている。