中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

過去の車を懐かしむ(1)

 車社会などという言葉になんの違和感も感じない時代になった。
言い換えれば、日本では車社会から後退しつつあるのはないだろうか。
 若い世代のひとたちの車離れが進んでいるという。人口が大都会に
集中してしまった日本の社会の中では、車がなくても不自由しないほど
交通網が発達しているからだろう。
 オーストラリアから来た(神戸に)友人たちは口々に、大阪と神戸の
間は山と海に挟まれて狭いのに三本も(JR,阪急、阪神)電車が走って
いる。信じられないほど便利だよ!! と、興奮していた。
 これはオーストラリアだけではなく、アメリカやカナダ、メキシコ・・など
多くの国でも言えることでしょう。 だから車がなくては生活できないような
広大な国々では車が命でもある。
 若い世代の人たちは、日本の車の歴史など、もうとっくに知っているの
でしょうが、それはたぶん知識としてであって実感は伴っていないのではと、
思っています。
 日本人の平均寿命が延び、私より高齢の方もまだまだたくさんご存命です
が、住んでいる地域の関係もあって日本の車社会の推移を目の当たりに
してきた人はそんなに多くはないのではないでしょうか?
 田舎に生まれ、田舎で育った方には、たぶん日本の車社会の推移はみえて
いなかったと考えています。
 そんなことを思いながら・・わずかしか経験のない私ですが、それなりに
懐かしい車のことなどを振り返ってみようというわけです。
 最初に私が初めて運転した乗用車は「日野コンテッサ」でした。後部にエンジン
を積んだ車でした。 私は20歳前後に在学していた学校が中央線の「日野に
ありました。 甲州街道に沿って大きな日野自動車の工場がありましたので、
日野と聞くと懐かしい。今ではバス、トラックばかりのようですが乗用車も作って
いたのです。 コンテッサは私のものではなく知り合いが持っていたものですが、
24歳の時に淡路島の洲本から志筑を2往復を運転したのが最初でした。
未だ普通自動車の運転目免許を取得していませんでした。(バイクの免許だけ
持っていた)
 そんなこともあって、明石の運転試験場(当時も今も巨大な施設)へ早朝から
行って、飛び込みで試験を受けて一発合格したのでした。 当時だから簡単
だっただろうと思うのは大間違い。 あの頃の方が難しかった。 交通法規、
自動車構造試験、実地試験でしたが、実地試験はタコツボが何カ所もあり、
3回のハンドル切り替えでタコツボから脱出できなければ不合格というもの
でした。 現在の方がより簡単になっているように思います。
 私が初めてコンテッサを運転した当時、淡路島には信号が一つもなかった。
 それより20年前の昭和12年ごろには、大阪でさえ荷物運搬はトラックよりも
馬車の方が数が多かった。 大阪で生まれ、父と叔父が働いていた運送会社
で日産の鼻べちゃトラックの(と言っていた)助手席と馬車にも乗せられて、
大阪市内を毎日のように走っていた当時が懐かしくもあり、映画のシーンの
ようでもあります。