中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

安倍政権の何が変わるのか。

 敢えて、7年半前に書いたものを掲載しました。
今度生まれる安倍政権と何が違うのでしょうか。「いじめ問題」は、あの当時から何も変わっていません。教育政策は安倍さんのころに大きな間違いを起こしています。
防衛庁防衛省に格上げしたのも彼ですが、あの時と同じように憲法改正を叫んでいます。
今回は何が変わるのでしょうか。
JA・NEWS新聞 2007年3月号
 
 安部政権にみる教育方針の危惧
 
 「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、最近の日本で起こっているさまざまな社会現象は、それらを地で行っているという印象があります。地方自治体の組合などが裏金を作るかと思えば、県警などでも裏金を作って自分たちの飲み食いに使っているらしいからあきれてしまいます。税金を何だと考えているのでしょう。
 税金の無駄使いと言えば、官庁主導での談合も行われる信じられない昨今であるだけに、あちこちの県で知事が談合容疑で逮捕されるのも珍しく感じなくなってしまいました。その上、談合容疑で逮捕された知事の後釜をめぐる知事選で「談合は必要悪」と言ってのけた、そのまんま東候補がタレントの強みで当選を果たすのですから、宮崎県民は何を考えているのでしょうか。
 猟奇的なバラバラ殺人事件が相次いでいる。同じ事件を報道しているのかと思ったら、まったく別の事件だったと言うような感じで続発している。いったい世の中はどうなってしまったのだろうか。このような事件が続くと、社会は落ち着きがなくなり、人々の心はとげとげしくなってしまうようです。
 先日、映画「硫黄島からの手紙」を観に行ったときのことです。日本でも最近は欧米並みに映画館が集合体になっていて、日本の映画館に来ていると言った風情はまったくなくなっています。チケットを買うために並ぼうとした折に、後ろから来た男性と少し接触しましたが「こら!きいつけんか!」と怒鳴れました。怒鳴られる場面ではなかったので、怪訝な顔をして振り向くと「なんや!文句あんのか、表に出ろ!」と声を張り上げます。振り返り顔を見て驚きました。そこには小柄で身なりもきちんとしている高齢者がいました。こんな場面で怒鳴るなんて、一瞬笑いそうになりましたが、笑顔で「どうぞどうぞ」というと、憮然とした顔で私の前に並びました。ああ・・この人は、こんなにも刺々しく生きているのだろうかと気の毒になりました。そういえば電車の中でも、世の中に不満いっぱいと言う顔で人々をにらみつけているような人を時折見かけます。
 
 安部首相は「美しい国日本」を旗印に掲げました。政権のスタートから評判は芳しくありません。支持率も右肩下がりが続いています。美しい国というような抽象的な表現がこの首相のすべてを物語っているような気がします。せめて「暮らしやすい国」とか「未来の明るい国」とでも表現して欲しかったと思うのは私だけでしょうか。
 政権発足後に次から次へと問題が起こり、浮き足立っている感じがしますが、そんな中にあって閣僚の発言が物議をかもし出しています。ご存知でしょうからここでは詳しく述べませんが厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械である」防衛大臣の「アメリカのイラク攻撃は間違いだった」外務大臣の「アメリカのイラク占領政策は幼稚だ」発言は、安部さんの両足を引っ張っているかのようです。
 
安部政権の教育方針
 安部さんは、今国会の主な目的を「憲法改正」に焦点を当てようとしています。足元に火がついたように、さまざまな問題が山積していると言うこの時期に、あえて憲法改正に焦点を当てると言うのは、逃げの姿勢としか言いようがありません。憲法改正とか、国民投票法案とか大きな問題にすり替えて国民の目を逃れようと言う魂胆がみえみえです。
 そんな中で、「いじめ問題」もクローズアップされています。いじめられた子供の自殺が何件か相次ぎました。自殺通告的な投書があったこともこの問題に拍車をつけました。
 ノーベル賞受賞者まで委員に任命しての「教育再生会議」が設けられて審議されていますが、充分な審議を尽くす以前に安部総理の思惑通りにことが進められていて、議論されているとは評価できません。
 1月19日に教育再生会議の1次報告案がまとまりましたが、その報告書の取り扱いには不審な面が見られます。なぜならば、最終報告案を公表せず、委員からも報告書を回収して首相の裁断を優先させようとしたと言う問題です。これでは報告案に首相が手を加えることが出来るわけで、議論は何のために行われたのかわかりません。また、大学の九月入学、授業時間の十%増しなど、もっと議論を重ねなければいけないものを、安部首相が総裁選で掲げた改革案をそっくり最終報告書に盛り込んだものとなっていると言う点です。
 発言権のないオブザーバーであるはずの 下村 官房副長官が、教育再生会議の運営委員会で発言するなど官邸主導があらわになっていることの表れでしょう。「教育再生会議」が飾り物に過ぎず利用されていると言う印象が強くなりました。「公」が良く使う手段です。
 
いじめ問題
 いじめについて安部政権は相次いで施策を発表しています。しかし、その内容は私にはとても納得できるものではありません。ここではその二,三を取り上げてみたいと思います。まず「なにをもっていじめとするか」と言う問題です。確かにいじめ問題には複雑な要因が絡み合っていて大変難しい問題でもあります。一口にいじめとは言っても、どこまでがいじめなのか分かりにくいものであることには間違いありません。かといって、今回文部科学省がまとめた新定義「いじめられたと感じたらいじめである」という解釈には釈然としないものがあります。従来の「いじめ定義」には(1)一方的(2)継続的(3)深刻な・・でした。今回はこの三要素が取り除かれ「いじめられた側が、いじめと感じた」らいじめと認定すると言うことになりました。
 子供には子供の世界があり、大人が考える世界とは違います。校内暴力がどんどん低年齢化している現状とか、授業が成立しない学年が下がってきていると言う重大な問題もある中で、学校教育の再建をあせる気持ちは理解できますが、「いじめを感じたらいじめ」と言う定義で、文部科学省が唱えている「いじめた生徒は排除する」と言う方針が一体となったときに、どのようなことが起こるのでしょうか。
 いじめた生徒を排除する方針の中には、「出席停止」も含まれ、「居残り」「立たせる」などの体罰が復活するようです。
 このような力による排除は、一見効果があるようですが根本的な解決にはなりません。力による排除は問題を後ろ向きにさせ、もっと陰湿ないじめの発現を誘発しかねないものだと思います。
 このような文部科学省の指導方針は、現場の教師たちにとっては恐怖となりかねません。それでなくても毎日怯えながら学校に通っている教師が多いのが実情です。教師の力量が下がっていることは否めません。教師の適正と養成に問題があると考えています。しかし、何よりも学校がこれほど混乱してきたのには、親たちの力量があまりにも低くなっていることの方が問題なのですが、それを議論されることがないのが不思議です。 
親たちは家庭内で子供の教育をせず、学校に対して権利だけを振りかざし、教師の威厳も踏みにじっている現状では、子供たちは教師に対して尊敬する気持ちもなくなってしまいますから、授業が成り立たないと言うことも起こるでしょう。
 文部科学省の方針通りに、いじめたと認定した生徒を排除する方向で進めるならば、生徒への対応は、現在の教師の数を倍にしてでも足りないのではないかと思います。学校現場は、ますます混乱の度を深めることは間違いないでしょう。
 現場を知らない文部科学省のお役人たちや、政府の偉い人たちが、ちょっとした事件に足元をすくわれ、慌てて作った施策が、学校現場をますます混乱に陥れる可能性があることを予測しえないのでしょうか。
 いじめ問題が文部科学省の施策の通りになるのなら、この問題はアメリカのイラク政策と同じで「泥沼的」になるだろうと私は予測します。
 私はいじめられてきた側の人間ですが、ここまで生きてきて今思うことは、いじめられた人間の方が優しくなれると言うことです。そして、いじめた人たちは歳を重ねるごとに卑屈になっているものなのです。いじめられたからといって直ぐに自殺するような子供は、今の大人のいじめ社会の中にあって生きていけるのでしょうか。
 大人たちが、もっと大人の考えを持って子供と接して欲しいと願うのだが、今の大人は萎縮していて情けない。大人としての自覚が大人の側に欠けているのではないでしょうか。
私は、電車の中でも街の中でも注意すべきところでは注意するように心がけています。「そんなことをしていては刺されるかもしれないよ」と大人たちは私に注意してくれるが、子供たちには注意をしないようなのです。私は子供たちに注意はしますが、反感を買うような言い方はしていません。先日も二人の中学生がジュースの空き缶を順に蹴りながら道路を走っていました。やがて、缶をそのままにして行きすぎようとしたので「君たち、その缶を拾ってくれないかな。ありがとう」と言うと、彼らは素直に缶を拾って持ち帰りました。電車の中でも、高校生に「ここは優先座席だし、前にご老人が立っているので席を譲ってあげてくれないかな」と言うと「はい」といって素直に立ってくれました。子供たちも話せば分かるはずなのです。大人たちはもっと賢くなって欲しいものです。
 子供に罰を与える前に、大人への教育こそ急務ではないかと考えてしまうほど、大人たちの萎縮が目立ちます。
 高齢者も、働き盛りの中年も、若者たちも、今一度立ち止まって社会を変えて行こうではありませんか。
 パースの電車の中などで、注意しあっている光景を見かけます。注意された方は素直に従っているように思えます。自立が進んでいる証拠なのでしょう。大人も子供も自立が遅れている日本は恥ずかしく、残念で仕方がありません。美しい日本と言う前に「住みやすい日本」にしたいものです。