大津のいじめ問題は、今日から生徒への事情聴取へと進むらしい。
生徒たちは、どのように受け止めているのだろうかと、その心情を心配する。
いじめなどというものは、いつの時代にもあった。昔はなかったと思う人がいれば
大間違いである。そして昔の場合は、いじめられても親にも言えなかった。親に言うと
「それでも男か」と逆に殴られるからだ。親の方が怖かった。
今の生徒たちは、昔と違って言える環境にあるのではないだろうか。それでも、自殺した
生徒が親に言えなかったのはなぜなのだろうかと考える。知らないだけで、親に相談した
のかもしれない。
もし相談されても、親も打つ手がないから、学校に相談するしか道はないと考えてしまう
だろう。しかし、相談された学校も、打つ手がないというのが実情ではないだろうか。
はたして学校には、どのようなことが出来るのだろうか。学校は教育の場であるが、
社会生活のためのマナーや節度などをどこまで教えることを期待されているのだろうか。
命の大切さなどを教えても、核家族化してしまった日本の家庭では、命が次第に衰えて
死んでゆく様を見せる機会もなくなっている。高齢者が、日々体力が衰えて朽ちてゆく
ことも知らない。だから、若者たちが優先座席に平気でふんぞり返って座っている。
早く言えば、日本中が「やさしさ」を失ってしまったのだ。昔のいじめには、そのやさしさが
残っていたが、今のいじめには「やさしさ」が見られなくなっている。
人が寄り添い、助け合いながら生きていくという自然な営みが失われてしまった日本の
社会では、今後もっとひどいいじめが起こるだろうと懸念する。
私は高校を作る時に、たった一つだけしか「校則」を作らなかった。教師たちからは
校則を作ってほしい、校則がなければ生徒指導もできませんと泣きつかれたものだった。
それほど「校則」は教師たちのマニュアルとなってしまっている。校則がなくても生徒指導が
出来る教師にならなければ、生徒との「会話」も生まれない。
生徒と教師が、上下関係を演じ続けるのではなく、人間同士として、お互いを認めあう
ことからしか、真の対話は生まれない。それは親子とて同じである。子供は自分のもの
ではなく、一時的に神様から預かった大切な宝物であり、小さな子供でも「人格」がある
ことを親が忘れていては、子供の教育なんて出来ないのだということを知ってほしい。
私が作った校則は「他人の権利を侵さない」というものだった。理解できない生徒たちには
どういうことかを話し合う中で理解を深めようと心掛けたものだった。