中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(117)

(117)
ヨーロッパ旅行
 
一期生が一年生の時、生徒たちから「修学旅行はどこへ行くんや?」
と聞かれたので、
「君達がアルバイトして貯めたお金で行くのだったら、ヨーロッパでも
 連れて行ってあげる」
「理事長、それほんまやな。約束やで」ということになっていました。
その後、ヨーロッパ旅行の話はまったく出ないので忘れ、三年生の終
わりの一月末から二月にかけて、ヨーロッパへ修学旅行に行くことに
なりました。彼らは、ほとんど全員、アルバイトをして貯金をしていまし た。
 生徒のうち、ヨーロッパ旅行より乗用車を買うことに価値を見出した
生徒は、乗用車を買うために使うことにしたようでした。乗用車を買っ
た川渕君は車が大好きで、いつも車の本を読んでいました。一年生の
文化祭のとき、川渕君に車の話をするチャンスを与えました。彼は、
数枚のチャートを用意したうえ、黒板も使用して、車についての「講義」
をしたのです。生徒と私たち職員全員を一時間にわたって引きつける、
立派な講義でした。彼は、その翌年の二年生の文化祭には、講演料(入
場料一人百円)を取って、もっとすばらしい講演をしました。
そのようなわけで、貯金の使い道については、生徒一人一人の価値観
を尊重することにしました。その結果、ヨーロッパへは八名の生徒が
参加することにしました。
修学旅行といっても、特別に組んでもらったツアーに参加するのでは
ありません。半数は、一般の方たちが混じっているツアーです。大阪
空港ー成田空港ーアンカレッジーアムステルダムー(一泊)-ローマ
(二泊)-ジュネーヴ(二泊)-パリ(二泊)-アムステルダムーモ
スクワー成田ー大阪という、全日程十日間の旅でした。
この旅で、生徒たちは貴重な体験をすることができ、すばらしい旅と
なりました。
まず、アムステルダムのホテルに入るとすぐ、自由行動を宣言しました。夜、一度チェックはするが、明朝出発するまでは自由行動としたのです。
もちろん、数々の注意は充分にしてあるので、私は生徒を信じ、「引率
されないで、自分の意志で行動してごらん」と言ったのです。お腹が空
いていた彼らは、クモの子を散らすようにアムステルダムの街に出てい
きました。午後三時頃には、すでに薄暮でした。彼らは、食物を探すた
めに歩きまわり、やっとのことで目的のハンバーガー店を探しだすこと
ができたそうです。彼らは、日本と同じように、どこの国へ行ってもハ
ンバーガー店がたくさんあるのだと思っていたようです。もうそれだけ
で疲れて眠ってしまいました。
生徒同士が情報を交換し合うなかで、レストランで食事をしてきた生徒
がいたことが分かりました。
中元君でした。彼は、
「お前らなさけないなぁ。オランダまで来て、ハンバーガー食べること
ないやろ。彼は、レストランで、ステーキにスープがついて千円ほどで
食べられたぞ」
「千円か。ハンバーガーも千円ほどかかった。これからハンバーガーは
やめて、レストランへ行こうか」「英語はどないするねん」「そんなもん、何とかなる。うまいもん食べに行こう」ローマでの三日間、彼らは生き
生きとしていました。ローマの街は、若者にとって刺激があって面白か
ったのでしょう。治安の悪いローマですが、彼らは私に心配をかけるよ
うな行動はしませんでした。
ジュネーヴに着いた夜、私たちのツアー参加者全員が一室に集まり、ゲ
ームをして楽しみました。中年の女性、OL、大学生など七名と私たち
九名、そして添乗員でした。
簡単なゲームをした後、自己紹介をすることになりました。中元君に
順番が回ってきました。
「僕は中元と言います。しかし、これは日本名です。僕は韓国人で、韓
国名で李と言います。今度の旅行では、パスポートをとるのが大変で、
学校にずいぶん迷惑をかけました。僕たちは全員落ちこぼれなんです」
ここまで言った時、中年の女性が、「そんなこと言わんでいいよ」
と、たしなめるように言いました。彼は続けて、「おばさん、本当な
んです。僕らは中学校の時、勉強ができなかったり、やんちゃして先生
を困らせたり、物を壊したり、人とケンカしたりして、先生や親に迷惑
をかけたんです……」みんなしーんとして、彼の深刻な言葉を聞いてい
ました。
「ここにいる理事長が作った学校に拾われたんです。今回は理事長に連
れてきていただいたけど、何年か経ったら、僕が理事長をヨーロッパへ
連れてきてあげようと思います」
中年の女性もOL も泣いていました。
こんな話を書くと創作のように聞こえるでしょうが、本当の話です。
私は、感激で胸がいっぱいでした。
ジュネーヴでは、レマン湖のほとりを散策したり、デパートへ行ったり、
それぞれが楽しみました。ジュネーヴからパリへは、フランス自慢の超
特急に乗りましたが、ジュネーヴの駅で彼らは一つの発見をしました。
列車の到着を告げるアナウンスもないし、「危険ですから白線までお下
がり下さい」というような、うるさいアナウンスもありません。駅員の
姿もほとんどないプラットホームに、列車が静かに入ってきて、発車の
ベルもなく発車してしまう。
「先生、ヨーロッパでは、自分のことは自分で考えんとあかんのやなぁ。
列車にひかれんように用心せなあかんし、誰も何も言ってくれんのや
なぁ」
百聞は一見にしかず。修学旅行で彼らが得た「自信」は、大きな財産に
なったことでしょう。
パリ最後の日の午後、中元君と私と二人で街を歩くことにしました。
パリの街は少々知っているので、案内をしてあげようということになっ
たのです。
ウィンドウの灯りが輝きだした頃、彼は、一軒のシューズ店の前で止
まりました。
「先生、あのブーツ見させてもらっていいですか?」
「いいよ」
彼と店に入っていきました。彼はそのブーツを履いてみて、「先生、
どう思います」
「なかなかいいやないか。値段もバーゲンで安くなっているし、買い
得と違うか」
「僕もそう思うけど……。でも、いいです。やめときます」
彼と店を出て、しばらく歩いた時、彼は、「先生、もういっぺん、
あのブーツ見せてもらっていいですか」「いいよ」
彼の父は、ケミカルシューズの会社を経営していました。彼も、卒業
後はシューズ関係の仕事をしたいと言っていました。
再び店に入って試着している彼に、「デザインの勉強にもなるし、
安いし、買っとけば……」__「実は、お金がもうないんです」
私がお金の貸し借りを絶対にしないようにと生徒に言ってあったので
、彼は遠慮をしていたのでしょう。私は彼に二万円を渡し、彼はブーツ
を買いました。
 日本へ帰ってきた翌日、彼は職員室へ入ってきました。山下校長に、
「先生、これ、お土産です」と手渡した後、私のところへ近寄り、
「先生ずいぶんお世話になりました。ありがとうございました」と丁
寧に礼を言いながら、左右を見てから机の下に手を伸ばし、封筒に入
った二万円を私に返したのです。
金の貸し借りを禁止していたことへの配慮を、職員室の中で見せたの
です。当たり前と言えば当たり前ですが、最近の大人でも、これだけ
の配慮ができない人が多くなってきていることを思えば、彼は「すご
い奴」だと思います。そういえば、一期生のことでは、四年間、一度も
警察から電話がかかってくることはありませんでした。彼らなりに
「ケジメ」をつけていたのだろうと思います。
手作りの教育が彼らにはできたし、神戸暁星学園の「理念」を、生徒
が肌で感じることができたのではないかと思っています。彼らが二年
目から来た新任の先生に、「この学校は、普通の学校と違うんやで」
と何度も何度も繰り返し言っていたのは、彼らがこの学校を誇りにしていたからです。
彼らは、誇りにしている学校を変えられることを恐れていました。
ですから、新任の教師のうちでも管理主義の体質を持つ教師には意識
的に反抗しました。ことあるごとに、私のところへ来て、「あの先生
の考えとることは、理事長の考えとることと違うんとちがうか?」
と強い不満を表すことは、彼らが、この学校の理念を理解しているこ
とを示していました。
「この学校は、普通の学校と違う」という彼らの言葉に、職員室で
平然と、「アホばっかりやから、普通の学校と違うわな」とうそぶく
教師が混ざっていたのです。
「この学校の『理念』は、今さら、理念、理念というほどのものじ
ゃない。当たり前のことですよ」と言っていた人たちが、心の中で
生徒を裁き始めていたからです。
「生徒を愛し、生徒の善を信じ、可能性を信じる」という理念は、
当たり前のようであって当たり前でなく理解できていたように思っ
ていても理解が難しいものだったのです。
特にツッパリ生徒を前にした時、理屈倒れの人は崩れていってしま
います。「先生」と敬われたいと思っている教師は、「肩書き」が
ない仕事ができない人と同じで、困難に出会った時、権威にすがり
つきたくなってしまうのです。「大会社」や、「部長」「課長」
「教師」などの肩書きなしで、どれだけ仕事をすることができるかが、
その人の値打ちではないかと思います。欧米では、肩書きを前面に出
して仕事をする人は非常に少ないのですが、それは個人がより尊重さ
れている証しでもあるでしょう。