中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(114)

(114)
教師の研修
 
 新校舎は生徒で埋まりました。長田校舎を除き、一、二年生合わせて、
二四〇名の生徒が新校舎に入りました。新任の先生が多いことと、同類
の学校が他になく、その経験などを学ぶ機会がないので、教師の研修は
かなり丁寧に行いました。
 研修会で、学習が遅れたり大人不信になっている「さまざまな理由」
の説明を充分にし、そのうえで「生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じ
る」神戸暁星学園の理念の説明をしたのです。
「理事長は、先日から研修会のたびに『生徒を愛し、生徒の善と可能性
を信じる』と理念のことをお話しされますが、別に目新しいことではな
く、当たり前のことじゃないでしょうか。ことさら強調される意義が分
かりません」
「理事長は、この学校の特異性について何度もお話しされますが、どこ
が違うのかよく分からないのです」というような質問がありました。
何を今さら理念、理念とありがたがるほどのものではないという雰囲気
が新任の教師のうちにあり、なかには、二年生になった生徒を見て、
「この理念で一年間教育してこられた結果が、この姿なんですね」と冷
ややかに見る教師もいました。この一年間が大変だったというけれど、
これがその答えですかと、厳しい目で先輩教師を見ていた新任の先生も
いたのです。
「生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じる」を、この学校の「理念」と
定めて一年が経ちます。この理念を当たり前と思う人、教育の原点だと
感心して下さる人、生徒の善を信じるなどという夢のようなことを言う
人に教育などできないと言う人など、いろんな方がいるのです。
しかし、「生徒の善を信じ可能性を信じる」ということを実践できる
人はそう多くありません。性善説を唱える人の中に、性悪説の人がた
くさんおります。ですから、「理念」は当然のように見えて実行でき
ず、簡単に見えて難しいのです。
そのことは、「難しい生徒」を目のあたりにした時にはっきり現れます。
それは、踏絵と言っていいでしょう。キリスト教徒が踏絵を前にして、
「たかが描かれたイエスさまの絵を踏んでも、何ら変わることはない」
と思ったとしましょう。しかし、その絵を踏んだ後で「自分の信仰は
本物だったのだろうか」と自問自答するのではないでしょうか。その
ような自問自答のなかで、その人の信仰は試されていくのだと思います。
「理念、理念というけれど、当たり前のことじゃないか」と思っている
教師も、現実に生徒を目のあたりにして試され、自己変革して成長して
いく人、だめになって去ってしまう人、生徒を裁く人と分かれていき
ます。
『理念』を本当に理解していたかどうか、それを見破るのは生徒たちな
のです。