中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

旅の思い出(17)スイス編

JAニュース紙 2012年7月号掲載  
 旅の思い出あれこれ(その17
 スイス編(ジュネーヴルツェルン
 
 スイスのジュネーヴを訪れたのはすでに37年も前のこと(1975年)になる。時のたつのは早いものだと、今更ながら思う。ジュネーヴは、チューリッヒに次いでスイス第2の都市であり、有名なレマン湖のほとりにある。第2次世界大戦前には、国際連盟の本部も置かれていたし、私が訪れた時も、たくさんの国際機関がこの都市にあって、さすが中立国スイスだと感じたものだった。ジュネーヴの近くには、リゾート都市のモントルーがあり、毎年バレエの登竜門のコンクールが開催されているローザンヌがある。今年のローザンヌ国際バレエコンテストでは、日本の菅井円加(まどか)さんが優勝して話題をさらった。彼女の今後の活躍に期待がかかる。
ローザンヌのバレエコンテストで入賞、優勝した人の中では、堀内元さん(アメリカ・セントルイスバレエ団の芸術監督)、吉田都さん(元ロイヤルバレエ団・プリンシパル)、熊川哲也(Kバレエカンパニー)など、世界に名の知れた逸材がいて、日本のバレエ芸術が世界的に誇れる水準であることを証明してくれていて嬉(うれ)しい。37年前にはバレエを詳しく知らなかったが、今ならローザンヌを訪れていただろうにと悔やまれる。 
ジュネーヴは、人口18万程度の小さな町でありながら、国際的に重要な機関が集結していることから、「世界一小さな大都市」ともいわれている。ローマ時代の要所、キリスト教宗教改革の中心地、時計産業の聖地、国連や赤十字発祥の地など、長い歴史の中で常に重要な役割を果たしてきた町でもある。文化レベルが高く、個性的な美術館や博物館、史跡、名所があり、ショッピング、芸術、歴史、文化、イベント、グルメなど、あらゆる要素を兼ね備えた観光地といえる。スイスの公用語は4つもあるが、ジュネーヴではフランス語が中心だと聞いた。
バスツアーでは、ジュネーヴの街並み、国連ヨーロッパ本部(外観のみ)、旧市街、宗教改革記念碑、サン・ピエール大聖堂などの名所を観光するが、時間は短かった。
この街は、“自由と独立”についての意識は古くから高く、1536年(日本では、武田信玄上杉謙信の頃)宗教改革を経て共和政へと移行し、1815スイス連邦に加盟した。デモクラシー発祥の地として、そして、宗教上の理由により異端として迫害され母国を追われたヨーロッパ中の人々を受け入れた地としても知られている。
カルヴァン宗教改革後、反体制派の避難場所として、ジャン・ジャック・ルソーバイロンレーニンなどの革新的思想の人々が集まった土地でもある。そういう目で、「ルソーの生家」訪れ、大聖堂や宗教革命記念碑では、カルヴァンやノックスという宗教革命の中心的人物を偲(しの)ぶと、「こういう環境で宗教革命が行われたのか」と感慨にふけることができる。もちろん、宗教革命について事前に深く知っておかなくては面白くもなんともないだろうが。私の場合は、若い頃に日本キリスト教団立の神学校に行っていたということもあって、特別な感慨があった。
 
 生まれて初めて「チーズフォンデュ」を食べたのがジュネーヴだった。食いしん坊の私はとても楽しみにしていたのだが、レストランの雰囲気は一流、味は三流という感じでつまらなかった。
 
街娼の多さにあきれる(「街娼」にルビ:がいしょう)
 あの頃は、スイスもまだ貧しかったのだろうか。戦争被害のなかったスイスは、貧しさとは縁がなかったように思っていたが違うのかもしれない。なぜならば、国際都市ジュネーヴの街角には、堂々と多くの娼婦が立ち並んでいたからである。国際機関が多く、外国からの赴任者が多かったので、その種の女性が集まっていたのかもしれないが、美しい街にふさわしくない汚点として記憶に残っている。
 
レマン湖を渡る
レマン湖を横断する橋が架かっていたが、橋の名は覚えていない。私は貴重な時間を割いて、一人で橋を渡り対岸まで歩いた。湖から噴き出す大噴水が目を楽しませてくれた。橋を渡って歩いているとデパートがあったので入ってみた。外国のデパートに入ったのは、その時が最初だったが、その後は外国に行くたびにデパートに入って、その国のデパートのあり方や、人々の買い物風景を楽しむようになった。このデパートで実演販売していた「吸水クロス(今では、どこででも売っている化学繊維の雑巾)」を買い求めて外国土産として持ち帰ったことが懐かしい。なんという町だったのかも記憶にはないが、私にとっては懐かしい思い出となっている。∧この雑巾は、パースのショッピングモールでは、よく売られているが、日本に帰国してから、なかなか見つけられないでいる∨
 
ルツェルンはスイス第7の都市である。ルツェルンを訪れたのは、1996年7月19日だった。ロンドン発の西ヨーロッパ一周観光バスツアーで、この日にルツェルンに入ったのだった。その日を鮮明に記憶しているのには理由がある。その夜、「ホテルの屋上に全員集合」と言う呼びかけがあり、何事かと行ってみると、屋上が紙テープなどで美しく飾られていてパーティー会場と化していた。「アトランタ・オリンピックに乾杯!!」と、みんなでオリンピックの開会を祝ったのだった。このツアーの半分は、オーストラリアからの参加者だったが、多分彼ら(彼女ら)が企画したものだと思われる。その夜は、ロビーでも大騒ぎしたもので、私たちにも「何かやれ!」と催促があり、東京音頭を歌いながら踊ったものだったが素晴らしく楽しい夜だった。
ルツェルンは、通称ルツェルン湖畔にある小さな都市で年中多くの観光客でにぎわっている。市内観光では、ライオン記念碑に行った。ここは昔スイスの兵が、外国の諸侯に傭兵(ようへい)として雇われ、戦場で勇ましく戦い、また雇用主の王様に忠誠を誓ったことから、ライオン記念碑として観光スポッツトになっている。記念碑を見ると、ライオンに矢が付き刺さっていても、盾(外国の王の象徴)を前足で守る姿をしている。
 
有名なカペル橋
 ライオン記念碑から、それほど離れていない場所で、ルツェルンの駅の目の前にカペル橋がある。この橋の名は、しばしばチェコのカレル橋と間違って表記されるが、ルツェルンの場合はカペル橋なのでくれぐれもお間違いのないように。
湖に流れ込むロイス川にこの橋が架けられている。ヨーロッパ最古の屋根付き木橋カペル橋は、実は湖から襲ってくる敵から街を守る城壁の一部だったようだ。カペル橋の両側面にはゼラニウムなどの花がいっぱいに飾られていた。1993年に大火災が起こり、ほとんどが焼失したが、すぐに再建されていて、1996年には一部の焼け残った板壁がその当時の火災の様子を残していたにすぎなかった。
カペル橋の近くには川に沿って土産物などの商店が並んでいた。ここで買ったチョコレートが、ヨーロッパあのあちこちで買ったどのチョコよりよりおいしく感じたものだった。
 
路面電車での嫌な思い出
 ルツェルンには路面電車が走っている。カペル橋近くの停留場から路面電車に飛び乗った。ホテルまでは駅の数で5~6だったように思う。小さな2両連結電車だった。乗ってしばらくして検札がやって来た。私たちは、日本の路面電車やバスのように、乗ってから切符は買えるものと思っていたので、切符は事前に購入していない。どんなに釈明しても、近くの乗客がとりなしてくれても、車掌は許してくれなくて、通常料金の10倍ぐらいの罰金を払わされた。停車場のところに小さな発券機があることを後で知ったが、後の祭りだった。この時のやり取りの印象から、スイス人は冷たい人種だと感じるようになり、その感情は今も残っている。もちろんスイス人という人種はなく、おもにフランス人とドイツ人なのだが、スイスに住んだことのある人たちに聞いても「スイスは人情のないところ」という共通の答えが返ってくるので、「やっぱり」と思っている。山々の美しさ、街のきれいさなどとは別に、つきあいにくい人たちという印象は、今もぬぐいきれないでいる。
 
スタンザーホルン展望台
ルツェルンの近くには著名な山が多い。あちこちの山を渡り歩くのも楽しいかもしれないが、バスツアーの私たちにはそんな時間はない。一日観光でスタンザーホルン(STANSERHORN)へと向かった。
1893年創業というレトロなケーブルカーと近代的な空中ケーブルで結ぶスタンザーーホルンは観光の名所でもある。周囲に広がるアルプスや眼下に点在する湖のパノラマビューを楽しむことができる。360度広がる視野は素晴らしいが、ガスが出てきて視野を遮ることもしばしばだった。
 私たちの写真ブックは、世界旅行の記録でいっぱいだが、スタンザーホルン頂上での記念写真も見つかった。そこには、1900m(6300Feet)と書かれている。あの頃は、こんなにも若かったのだと、しみじみと当時のわが顔を見る。しかし、当時の風景や、感激を今も忘れないで残っているのは幸せというほかあるまい。