私流生き方の中で、51歳のころの私の日々を書いている。というより
55歳で出版した「教育の原点を求めて」をそのまま紹介していると
言ってよい。
それを読みながら、いろいろと26年後の今の自分と比べて考えてしまう。
この26年間、ほとんどボランティアの人生を使ってきたという自負心は
大きい。やってきたことに大きな誇りを持っている。
人は何のために生きているのか。同じ生きるなら人のために生きる
べきではないかと考えながら生きてきた。
2005年に豪州から15年びりに帰国した後も、がんに関する組織を
立ち上げて、私なりの努力を続けてきた。
多くの方に喜ばれたと思っている。
しかし、毎年多くの仲間に逝かれるとやはり寂しい。特に昨年は近しい
人が多く逝ってしまった。自分の年齢のこともあるのだろうが、寂しさ
が強くなってきていることを感じる。自分なりに鬱にならないようにと
強く生きてい入るが、どこか鬱っぽい様な気がして我ながら要注意である。
仲間をどんどん失うとこんな心境になるのは不思議ではないだろうが、
それでも「私にはしなければならないことがある」と思って頑張っている。
今年の目標などという、若いころのようなものはなくなってしまった。
でも、毎日前進あるのみ・・という私流の生き方だけは変わることはない。
意気込みに変化が出てきているのは、年齢のせいだろうと思っているが、
これまでは、支えがなくても大いなる前進ができたのに、今では支えを
欲しがっているところが変化だと自覚している。
遠藤周作さんのエッセイを若いころから腹を抱えて笑いながら愛読
したものだった。しかし、あの遠藤周作さんも晩年のエッセイは暗くなっていた。
やはり年齢がそうさせるのか。高齢者の気持ちを若い人に伝えたいという
気持ちがそうさせたのだろうかなどと考えてしまう。
自分がそういう年齢にあるだけに、もう一度若い気持ちを取り戻して
行こうと思う。若い人の気持ちとは「夢」を持つことだろう。
高齢になると「夢」も見なくなる。童心がなくなる。今何よりほしいのは
「童心」である。