中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(107)

(107)
 
中学校への説明回り
 
入学式以降、毎日毎日、高田校長には中学校巡りをしてもらって
いました。校内は私が見るから、校長は中学校巡りをし、この学校
のことを説明して下さいとお願いしてありました。高田校長は、
中学校の校長を退職した後、信託銀行の仕事のために中学校巡り
をしていた経歴があるので、この仕事は適任だと思っていました。
その高田校長から、来年の受け入れ態勢についてどのような計画を
持っているのかと聞かれました。私も、毎日毎日教育相談を受けな
がら、早く手を打たなければと悩んでいたことです。
教室は二つしかありません。来年は、一クラス以上の生徒が来るかも
しれません。来年の教室をどのように用意すればいいのか。しかし
、今年の場合でも三千万円以上の赤字になることは分かっています。
それなのに、来年の教室を早い時期から手配しておくということは、
不可能でした。
資金が豊潤にあって作った学校ではありません。行く場をなくした
生徒たちに道を開くために作った学校です。難しく言えば、「後期中
等教育の保障」をするために作った学校なのです。十八名の生徒た
ちからの授業料収入は、砂漠に小雨が降ったように、あっという間
に消えていきました。どこからも寄付金はありません。毎月の家賃、
給料、その他の経費の支払いは、大きな負担でした。兵庫相互銀行
(現、兵庫銀行)からの融資も受けましたが、取引の実績も少なく
多額の借入は不可能です。給料などの支払__いのほとんどを、サラ
金から借りました。当時、サラ金から金を借りて破産する人が多く、
大きな社会
問題として騒がれていた頃です。今だから言えることでもありまし
ょう。その頃にこんな話をウカウカしていては、生徒はおろか、教師
だって誰一人来て下さらなかったに違いありません。サラ金から金を
借りて学校作りをしたというと、不謹慎だと多くの方から非難され
そうですが、行き場をなくした子どもたちを救いたいという私の情熱
をご理解下さい。
学校作りの準備を始めた時から開校後一年間、私は給料をまったく取
らなかったし、その後二年間は年間所得が三百万円しかなかったので、
生活の方も大変でした。その頃、生活費のために銀行から借りたお金
を、六年経った今も支払っています。
そのような状態ですから、来春からのことをどれほど心配していても、
何の手も打てないのです。もうすでに来春の「入学案内」ができてい
なければならない時期なのに、校舎問題が未解決なので見合わせてい
ました。