中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(74)

 子供のころから右耳が聞こえなかったことでは、かなり辛い
思いをした。授業が聞こえない、右側から突然言われても分か
らない。真珠腫独特の悪臭にも悩まされた。毎日2度、耳掃除
をしてきれいな綿を詰めていた。子供のころは、たちの悪いア
トピー(当時はタイドクと言われた)衛生面の悪さでの悪化と
共に、この真珠腫にも悩まされたものだった。身内の中でも、
当時私がどれほどこの二つに泣かされていたかを知る人はいない。
医者にも行かなかった。一人で悩むほかない時代だった。
  KFSを結成したけれど、このグループには、入会したメリ
ットがない。組織と言うものはメリットがあってこそ入会もするし、
協力もするのだが、同窓会的なグループだけに年に一度出会うと
いうことならば良いが、月に一度の例会への出席に意味を見いだ
せない。そのようなメリットが少ないグループをどうすればよい
かに苦慮した。この経験がその後にも大きく生きたと言うべきだ
ろう。
 とにかく、KFSを有名にすることで、参加していることへの
メリット性を作ろうと考えた。そのためには、神戸市や商工会など
が企画するあらゆる会合に顔を出してアピールを繰り返したものだ。
  当時の神戸商工会議所会頭からは「ファッションなんて「流行」
と言う意味だろう。神戸はね、鉄(神戸製鋼)と食品(灘の酒)で持
っているんだよ。ファッションなんてものが神戸の支えになれるわけ
がないだろう」と批判されたものだが、それから数年間で、神戸フア
ッションの売上高は、鉄も食品も超えてしまったのだから、勢いというものはすごい。
  神戸ファッションショーは神戸文化ホールで行われた。ファッシ
ョンウイークも作った。その時の流れは今に続いている。様々な行事
に参加することでKFSは多くの人々に知られるようになった。その
ことで、メンバーたちはKFSに参加していることに誇りを持てるよ
うになった。その時の手法は、その後にオーストラリアでも、帰国後
の神戸での組織結成と活動にも生きている。
  まず、会長が動きまわり、組織を活性化させることで、いろんな
人たちが参加し、ついて来てくれる。
  不渡り手形を出して、一旦は銀行取引停止になり窮地に立たされ
たが、こうしていつの間にか立ち直っていた。
 そう言うある日、サンテレビジョンの方から「神戸の未来について
の意見を聞きたい」と言う電話がかかってきた。まさか、東京12CH
系列のTVワイドショーの司会を引き受けることになるとは、思っても
いなかった。