中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

宗教の話し(2)

急用で書けなかった昨日の続きを書こう。
 
キリストがキリスト教信者ではなくユダヤ教信者であったと書いたが、仏教の開祖と
言われるゴータマ・シッダッタ(御釈迦様)(ブッダとも言う)仏教徒ではない。
彼は、当時インド思想の中にある「輪廻転生」を否定的にとらえ、人はいかにして輪廻
転生の呪縛から逃れることが出来るだろうかと考え続け、迷い続けてきたのだった。
仏教の中で「悟りを開く」と言う言葉があるが、御釈迦様が「輪廻転生」の呪縛から逃れる
ためにはどうすればよいかと、考え、修行してようやくたどり着いたところが「悟り」なのである。
御釈迦様は、人生が短い、人は死ねば終わると「無」ということに悟りを開いたのだった。
 
現在の仏教は、御釈迦様の「人は死ねば終わる。だから私の墓も要らない」と言った言葉を
守らずに、仏教と言う新しい宗教を作りだした。
その仏教の回り(タイランドラオスインドネシア)経由で伝わったものを小乗仏教といい、
中国経由で朝鮮半島を経て日本に伝わったものを大乗仏教と言う。
 
大乗仏教では「輪廻転生」を教えているが、宗教として成り立つためには、その方が広めやすいから
だろうと思う。
親鸞浄土真宗の開祖と言うことになっている。一口に浄土真宗と言っても幅が広く、東本願寺
西本願寺仏光寺派、高田派、大谷派など10派ほどあり、日本の仏教界では最も信者が多いのでは
ないだろうか。
しかし、親鸞ご自身は、浄土真宗を起こしてはいない。教えを受けたものたちが「浄土真宗」を
立ち上げたにすぎない。
 
どんな宗教にも存在意義があると考えている。もちろんユダヤ教キリスト教イスラム教などの
絶対宗教では、他の宗教を認めることはない。でも、私はどの宗教にも存在価値はあると思っている。
それが新興宗教であってもだ。その宗教が人を救っているのならである。
宗教に絶対などと言うものはないはずだ。聖書に書かれていることも、科学の進歩によって打ち砕かれた
部分が少なくない。地動説と天動説でカトリックは大きく揺れた。また、ダーウインの進化論を認めると
聖書に書いてあることがうそになってしまうという矛盾もある。
しかし、だからと言って聖書はだめなのかと言うとそうではない。教えとしてすばらしいことは多い。
だから、どの宗教も絶対などということではなく、他の存在も認めることが大事なのではないだろうか。
 
絶対宗教の3兄弟宗教が砂漠の中で生まれたのとは対照的に、日本では八百万の神がある。
ヤオヨロズと読む。山や谷に神が宿るような神秘さがあることから、あちらこちらに祠が作られる。
そして巨石や巨木にも神が宿っていると信じられている。
天神様は菅原道真公を祭っている。日本では誰でも神様になれる。
徳川家康織田信長豊臣秀吉も神社の祭り神となっているし、作戦が下手で多くの兵士を
無駄死にさせた乃木大将も乃木神社に祭られ、日露戦争で日本を勝利に導いた東郷平八郎元帥
東郷神社に祭られている。
日本と言う国は、そういう意味ではおおらかな国である。
出雲大社には大国主命がまつられ、年に一度は神々が集まってくると言われているし、
伊勢神宮天照大神の子孫であるとされる天皇家の先祖をまつる神社であり、天照大神
祭られている。
日本のあちこちには、神様と仏様が同じ場所に祭られているが、これも神仏合体政策によるもの
とはいえ、とても不思議なことで、欧米人から見れば、とんでもない国だと思われるだろう。
しかし、これでいいのかもしれないと思っている。
でも、もうすこし、仏教とは?神道とは?キリスト教とは?など、もう少し深く考えても良いのでは
ないだろうか。
そんなこと考えたこともないと言う人は、欧米人の言う「宗教をもたない人は信じられない」ということに
なるかもしれない。
正月には、初詣で神社に行き、お盆には仏様に手を合わし、お彼岸には墓参り。クリスマスには
大騒ぎ・・・いやはや、なんとも不思議な国である。