中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(142)私を守ってくれたのはだれなのか

         《星が見えすぎて汚い》

 娘の家族が来た時に、恵美と子供三人と一緒にパースから海岸沿いに南に二時間ほど車で走ったあたりのバンバリー市近くの海に近い一軒家を借りて、ドライブしたことがあった。

 夜になって、近くの海まで出かけようかと、玄関を出た時に娘たちが悲鳴を上げるので何事かと思ったらドアの前にカンガルーがいたのだった。

この辺りでは珍しくない光景だそうだが、玄関の前にまでカンガルーが姿をあらわすとは思ってもいなかった。さすが田舎だなーと思った。 パースのような大都会では、玄関の前にカンガルーが来ることなんてありえない。 カンガルーはヒトを襲う動物じゃないので安全だけれど、人になつく動物でもない。 

砂浜まで行って空を見上げた時に恵美の言った言葉をいまも鮮明に記憶している。

『空って汚いね』 と言ったのだった。 いったい何を言っているのかと思ったほどだ。

なるほど星がたくさん見えすぎてというより多すぎて星座が分からないほどに空が真っ白に見えるほどに星で満ちていた。 子供のころ淡路島で育ったが、昔の淡路島でもこれほど星が多くて真っ白になるほどの夜空を見たことはない。

 パースの場合は、工場と言えるようなものはなく、それらしき感じがするのは発電所だけだったし発電所は郊外にあるのだからパースの町の空は汚れてはいない。しかし、街の灯りが明るすぎて大きな星座しか見えない。

我が家の真上にはいつもオリオン座が美しく輝いていたが、バンバリーのように星が多すぎては星座も探すことが出来ない。 澄みわたった空の星が多すぎて美しいと言えないなんて。

         《私の母の死と遺骨と遺影》

話は一年半ほどさかのぼるが、1993年10月に京都近郊の長岡天神近くに住んでいた母が亡くなった。82歳だった。 

母の信仰上の理由で葬儀は行われず、近しい親族だけが集まったが、わたしは急に帰国できず、娘が代理として言ってくれていろいろと手伝ってくれたので助かった。

翌年に帰国して、母が生前にお世話になったと思われる人たちにご挨拶に行った。

 18歳で母と再会し、19歳で離れた経緯はこれまでに詳しく書いてきました。19歳以降、わたしが40歳ごろまでは年に一度会う程度であり、母からは選挙のはがきが来る程度だった。40歳を超えてからは、年に4度は顔を見せに行っていた。母も、日本舞踊の弟子が多く、宗教上でも地域の婦人部長などをしていて、かなり多忙だったようであり、のんびりと話す機会はなかった。

 豪州へ移住する前にあったとき、母がこんなことを言った。

『死んだら、どうなるのだろう、どこへ行くのだろう』と。

 これまで信仰に熱心だった母が、そんなことで悩んでいたことを初めて知った。自信満々に見えた母だったが、やはり死後の世界には不安があったのだろうと思う。死というものは、間際にならないと、死ぬことの辛さも分からないものだと思う。

  母の遺影と遺骨をパースに持ち帰り、書斎に11年間置いてまいにち対面していた。2005年に帰国する際には、遺骨の90%を美しいヒラリーの海のあちこちに撒いた。帰国後は、自宅近くの神戸を見渡せる大月大橋の上から、少しばかりを残して散骨した。

いまも手元に少しの遺骨を大事に持っていて、遺影も置いてある。わたしが死んだ母親よりも年上になったことから、母の遺影のなかに微笑みを感じるようになった。私と母は、生前は一緒に暮らした月日は短かったが、母が骨になってからの30年間を共に暮らしている。

いまの私には、信仰心は何もない。 信仰とは何かを知りすぎて、宗教を信じようという気持ちは起こらない。 しかし、人の霊魂だけは信じている。 宗教とは一切関係なく、信じている。多くの霊魂に守られているという言う実感のようなものを感じるからでもある。