中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(125)私を守ってくれたのはだれなのか

記事に変更が加えられています。 

《二度目の会長に選ばれる》

その二年後(移住してから5年目)の選挙で私が再び選ばれて二回目の会長となり、その年に、全豪州の日本クラブ副会長にも選ばれた。 

全豪州日本クラブから【オーストラリアの日本人】という大判本を出版することになり、わたしは西豪州の日本人の歴史や、西豪州で活躍した人たちのことをについて数人の記事を書いた。過去に多くの日本人女性が売られてきた経緯や彼女たちの墓などについても記事にした。

昔、日本からパースにどのようにして渡ってきたのだろうか、アジア諸国にわたり、島伝いに豪州に来てから、沿岸を下ってパースまでくるのは大変な労苦が伴う。 そんな昔にやってきた男女がいたのだった。

女性の多くはというよりもすべてであったと思うが、娼婦たちであった。 サンダカン物語などでアジア諸国に売られた日本人娼婦のことはよく知っているが、日本から遠く離れたパースまで流れてくるには、どれほどの苦労があっただろうかと思う。当時の西豪州パースまで流れてきた女性たちのことを考えると涙が出てくる。 豪州のゴールドラッシュのころの労働者たちの慰み者になっていたのだろう。

男性の場合は、ほとんどが洗濯夫だったようだ。そういうことが分かったのも、お墓が存在したからだった。そういう墓が残されているということも、ほとんどの日本人が知らないので、本の中に紹介しておいたのだった。 先に書いた、巨大な墓苑の中の日本人墓地ではなく、市内の他の墓地の中に日本人が葬られていたのだった。

どのような経緯で、墓が残されたのかは分からないが、男性の場合は「洗濯夫」と職業が書かれているのでわかったのだった。 北の方の金鉱山のあった地帯に行くと、女性たちの墓がもっとあるらしい。 墓の存在は、一人の人がこの世に存在したことをあらわしている。彼女たちは21世紀に生まれ変わっているのだろうか。

《N元会長の名誉回復に尽力する》

 私は二回目の会長として、ぜひとも追い出されたNさんの名誉回復を果たしてやりたいと思っていた。 Nさんは私の家から二百メートルほどのところにあるので、Nさん宅に行って話を聞くのだが、彼の横柄さと頑固さには閉口した。 私は彼の名誉回復をと思うのだが、彼は自分を追い出した連中に土下座をさせたいという。 彼を貶めた連中が土下座をして謝るなどということするはずもない。

        《緊急動議の内容》

 話は一気に二年後にまで飛ぶが、私は秘策を練って、二年後の総会に臨んだ。 Nさんにも特別出席してもらい、一部始終を見てもらった。

総会で「Nさんの名誉を回復するための緊急動議案」を出した。

分かりやすく書くと、 

『Nさんは、移住者たち三人からHさんに騙されたという訴えを聞き及び、役員会で誹謗したことは行き過ぎだったと思われる。しかし、突然に臨時総会が行われNさんを「罷免」したことは、もっと大きな誤りだと思われる。 なぜならば「罷免」とは、任命権者が行えるものであり、選挙によって会長に選ばれたNさんをだれも「罷免」することはできないからであり、よって、当時の「罷免決議」は無効だと考える。この場で、参加者の投票によって、Nさんの罷免は無効かどうかを問いたい』

 このような動議を出し、投票が行われた。

過去の罷免決議は無効であることを総会で認めて、Nさんの名誉が回復された。 しかし、Nさんは、自分を陥れた連中を指さし、貴様ら土下座して謝れと、言い残して去っていった。

とにかくは一件落着であった。日本クラブの大きな問題であった部分を解決できたことはよかった。

このような過去の事件を抱えたままでは日本クラブのために良くないと私は思っていた。何ごとも渦中に飛び込んで解決していくのが私の生き方でもあるのだから、Nさんの名誉を回復しておいてあげたいと思い続けていたのだった。

Nさんとは長島氏であることことをここで明らかにしておきたい。彼の家には何度か訪れた。道路際から前庭のすべてをフェンスで囲い、赤い犬を自由にさせている。この犬の吠えプリがすごく訪問者は入れない。いまにもかみつきそうな犬だ。飼い主に似ているのだろうか。

 ところが、わたしは訪問したときに、この犬は吠えず、わたしは玄関まで悠々と行くことが出来た。 長島さんは「こんなことはこの犬を飼い始めてから初めてのことだ」と驚き、『あなたが信用できるということをこの子が証明してぅれている』と家の中に招き入れてくださったことを思いだした。

     《私の計画をさりげなく提案する》

私は、任期を終えての辞任前に最後の提案を行った。シドニーの日本クラブが導入している、クラブ内での助け合いシステムを西豪州でも導入しようと思っていたが、おそらくHさんたち(Nさんを追い出したグループ)が強く反対するであろうと予想していた。 反対があっても多数決で決めることではないと思われるので、反対があることを見越して、動議を出した。

私は別に「支えあう組織」をつくるつもりで準備していたが、日本クラブの別派作りに見られないように、用心して動議を出したが、思った通りにHさんたちが強く反対したので、あっさりと引っ込めた。 もう西豪州日本クラブには未練はなかったので、支えあう組織の提案をしたことを議事録に残してあっさりと退くつもりでいた。