中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(100)私を守ってくれたのはだれなのか

       《しつけとは、どういうことを言うのだろうか》

前回に「しつけ」とは、いろいろな制限をつけることだと書いた。

子どもは無垢で生まれてくる。そして、一人一人が成長のプログラムを持って生まれてくる。そして二歳前後に第一反抗期を迎える。 子供は親に反抗するように初めからプログラムされていて、反抗も成長の一つの過程なのだが、心の狭い親、そういう知識のない親は、「子どもの抵抗」だと思って、叱ってしまう。

場合によっては、この時点で子どもを憎らしく思う親さえいて、事件につながる。最近は子供殺しさえ平気でやるような親が増えている。

好奇心旺盛な子どもが親にとって困ることをした際に、心の大きい親、子育ての知識を

持っている親は、目を細めてわが子の好奇心を眺めているこができるのだが、心の狭い

親や子育てのことを知らない親は叱ってしまうのだ。

小学校三、四年生の頃に次の反抗期がやってくる。最もひどい抵抗期は、中学二年生の

頃から、高校二年生ぐらいまでだが精神的な成長の進度が一人一人違うので、反抗期の時期も多少違ってくるということも知っておくべきだ。

一般的には、このように、高校生になるまでに三回ほどの反抗期を迎えるように、人は作ら

れていて、反抗期がない子供のほうが心配なのだ。

何度も言うが、この反抗は、生まれたときからのプログラムによってなされているので

あって、子どもが 順調に成長している証しでもあるわけなのだ。

しかし、世の多くの親たちは、このことを知らないで子育てをしている。反抗期への対処の仕方もわからず、親への反抗だと深刻に受け止めて、嘆き悲しみ、怒り、失望し、そのあげくに子どもを無視し、 放任し、わが子であることさえも否定してしまう場合も少なくない。

父親が、子どもとコミュニケーションができなくなるのも、反抗期を境にしている場合が多いのが現実である。

「しつけ」と、はある制限を子どもと約束することなのだが、このような子どもの成長プログラムを理解したうえでのことでなくてはならない。

だから、親は子どもへの「しつけ」に際しては、自分の側に勝手気ままがないか、自分の不勉強ではないかと絶えず反省し、チェックしておくことが肝要ではないかと思のだが、どうだろうか。

叱るだけでは子どもは成長しない。なぜ叱られているのかを、親がきちんと説明しなければならないのだ。反抗期の対応を誤ると、子どもの持って生まれたプログラムを壊し、良い資質を悪い方向に向けてしまいかねないということを知っておくべきだ。

「しつけ」を間違ったものにしないために、両親や教師はどんなにそのことを学んでも学びすぎにはならないだろう。

子どもの成長の 「阻害要因」 にならないように心すべきだと常に考えている。

        《阻害要因とは何か考えてみよう》

 筑波博だったと思うが「トマトの木」が出品されたことがある。雑誌などに大きく取り上げられたので記憶されている人が多いと思う。

  ごく普通のトマトの苗を水耕栽培にして、人の手を掛けずに放置して育てたそうだ。

その結果、木のように大きくなり、数万個のトマトの実がなった。

 もちろん、これをそのまま農家が取り入れることはできない。果実の採集が困難になってしまうからだ。農家は、水耕栽培の都合の良いところだけを取り入れてトマト栽培する。

 しかし、トマトの木には教えられることがたくさんある。

私たち人間は、自分の子供に対して、(脇目)の芽を摘み取り、あるいは摘果し、剪定をして育てる。トマトで言うなら、自然栽培ではなく、完全に人間の都合の良いように育てる。トマトを信じて、どこまで大きく育つのかを実験したのが、筑波博に展示されたトマトの木だった。

 親の理解が乏しく、子供の成長の芽を摘み取ってはいないか。学校の規則は生徒たちの成長を助けるものになっているのかどうかの再検討を加えたことがあるのかどうか。規則による制裁で生徒たちの成長の芽を摘んでしまっていないのだろうと、考えたことはあるのだろうか。

 剪定を間違えて、大切な枝を切り落としてはいないか。選定方法も知らずして、子供を育て、生徒を教育しているのではないかと、考えたことがあるのだろうか。

 もしそうなら、子供の成育の阻害要因になっているのではないだろうか。大人たち全員が考えなければならない重要な問題である。

時代は流れるとともに、時代に合う子育てが必要になる。自分の子どもの頃や、自分の育った家庭を思い出し、自分の子育てに当てはめると、時に正しく時に間違っているだろう。

いつの世でも、世界中のどこへ行こうとも、子育てに欠かせない鉄則というものがあると思う。今の日本では、その鉄則を忘れてしまっている親たちが増えているのではないだろうかと危惧しているのだが。

   《学校に(しつけ)を要求する親たちが増えている》

「しつけ」ができなくなってしまった親たちは、学校に対して「しつけ」を要求する。先ほども書いたように 「先生、私の子どもをどうかなぐって下さい」 というようになってしまう。

しかし、学校の先生が生徒を叱れば、子どもたちは、先生を嫌いになっていくばかりで、教育と離れたものになっていく。センコーが嫌いになっていくのも、もとはと言えば家庭教育が悪いからだと思える。

日本の小学校は、服装も、頭髪も、クツもカバンも自由になっている。ファッションのセンスが抜群に優れてきた日本の子どもたちは、色の組み合わせもうるさくなってきている。ひと昔前までは、親の言ったとおりの服を着ていたものですが、最近の子どもは、「このスカートと、このブラウスに上衣」 というように、しっかり自分の意見を持ち、ファッションを楽しむ習慣が身についている。

ところが、中学校に入学したとたん、制服着用を義務づけられ、頭髪にも厳しい規則がつけられる。小学生の頃から、すでに子どもをコントロールする力を失っている親の場合は、子どもが学校の規則と違ったことをしていても、ブツブツ言う程度で、子どもをコントロールできなくなっている。

小学生の間は子どもをコントロールできていた親でも、中学生になって子どもの中に芽生えてきた 自我にたじたじとなってしまって、子どもをコントロールできなくなってしまうのだった。

中学生にもなると、よほど幼いタイプの子どもでもない限り、親が子どもをコントロールすることが難しくなるのが普通だと思わねばならない。

親が子どもをコントロールできなくなると、悪い場合には放任になってしまうのが問題です。

制服や頭髪などについて、さまざまな規則を持っている中学校の先生は、規則を無視した行動をしている生徒を注意しなければならず、注意が重なると叱らなければならなくなります。

それまでは、学校に厳しいしつけを要求していた親も、自分の子どもが規則違反で注意されたり、親が呼び出されたりすると「中学校の先生は、つまらないことをうるさく言うわねぇ」と、学校や先生の悪口を子どもに愚痴たり非難したりする。

親が学校や先生の悪口を言っているので、問題を起こした子どもは、反省する姿勢よりも、ますます学校や先生が嫌いになってしまうのだ。