学校ってなんだろうと考えた人はいますか?
もし考えた人がいるとすれば、登校が嫌になった子供か、その両親か。
ほとんどの人は、当然のごとく学校へは行くものだと考えていますし、
行かなければいけないと考えています。
特に義務教育は、絶対に受けなければならないし、受けるべきだと思って
いる人がほとんどです。
しかし、義務教育は子供の側が「受けなければならない」ものではないのです。
「義務」とは、子供たちに平等な教育の場を与える義務が国家の側にあると言う
意味なのです。ですから、義務教育だからと言って強制的に子供を学校に行かせる
と言うのは間違いです。学校が不必要と言っているわけではありません。
義務教育と言う言葉を間違って受け止めている人が多いので書いてみました。
学校ではカリキュラムを組み、そのカリキュラムに則って授業を行います。
分かりやすく言えば、小学校の3年生の2学期の算数はなにを教え、国語はどういう
ことをやり、6年生の1学期の社会科ではなにを教えるなどが定まっています。
生徒各自の能力とは関係なくカリキュラムは組まれています。だから、カリキュラム
通りに授業を進めると、能力のある生徒には簡単すぎて物足りなく、能力が遅れて
いる生徒には、何がなんだかさっぱり理解できないと言うことがあります。
しかし、いずれの場合にも学校は各自の能力に合わせた授業など出来ません。
生徒全体をカリキュラムに沿って教えるように定められているからです。
すべての生徒の精神的成長が同じではありません。個々に成長度が違っています。
言い換えるならば、だれもがDNAに持っている親に反抗しなさいと言う大人になるための
過程である反抗期の出る時期も一人一人が違い、その出方も異なります。
両親や教師が「反抗期」への対処を誤れば、その時点から子供を「問題児」への道に
向かわせてしまう場合も少なくありません。
中学生ともなれば身体的な成長も大きく異なってきますし、それに伴って性的な
興味も異なってきます。
このように一人ひとりが「個性的」にばらばらな状態の中で「教育」が行われます。
教育とは何でしょうか。学校で行われる教育とは、何をどこまでなのでしょうか。
そして、だれがそれを教えるのでしょうか。当然の答えとして教えるのは「教師でしょう」
という声が聞こえそうです。
教師の能力について考えたことがあるでしょうか。教師ってそんなに何もかもに
対処できるほど優れている人ばかりなのでしょうか。答えはノーです。
この続きは次の機会に書きましょう。