中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(99)私を守ってくれたのはだれなのか

              《教育現場で思うこと》

「しつけ」について思うことが山ほどある。 核家族化が進み、年齢を重ねた人の意見を聞くこともなく、親になるための教育も受けたことのない若い二人が、ある日、突然親となり、我流で子育てをしているのが実態だと思う。

これは都市社会に生きる若い人たちの典型的なスタイルである。そのうえ、社会の状況が変化し、社会教育というものがが、ほとんど期待されなくなりつつある。私の知っている古い時代では、多くの子どもたちは働いていた。自分のお金を得るためでなく、家族のために働いていた。子どもも家族の一員としての意識を持っていたのだった。最近では、子どもを家庭内で働かせる親は、ほとんどいない。子供を働かせることが罪悪視されるほどである。家族の一員として、その何分の一かの仕事を子どもにさせる親を、ほとんど見かけない。

「勉強さえしてくれればいい」 と親は思い、子どもに勉強だけを要求するようになっている。

勉強ができるかできないか、好きか嫌いかに関係なく、親は子どもに勉強だけを要求し、よいテスト点だけを期待するようになっている。

私の子どもの頃には、公衆浴場へ行って、立ったままでお湯を浴びていると、近所のおじさんが 

「こら、座って湯をつかわんかい。シブキがかかるだろうが」 と注意してくれたものだった。 いい意味での、おせっかいが世間にあったのだった。最近は 「うかうか他人の子に注意をしたら、何をされるか分かったものじゃない」 と、多くの人が考えるようになっているようだ。

むかしは狭い家に多くの人が住んでいて、 台所で仕事をしている母親のそばで宿題などをし、兄が 「九九」の暗記をしているのを聞いていて弟がそれを覚えていたというが、今は個室にこもりきりになってしまう子供が増えてきている。 

私の子どもの頃には、テレビもなく、映画だって、一年のうちに一、二度行けるかどうかだった。 勉強ができなくても、 コマ回しが上手なだけでも子どもたちの間で認められる風潮があったものだ。

最近は、近所の子どもとあまり遊ばず、 家の中でコンピューターゲームに夢中になり、学校の成績だけが評価のすべと思う人が多くなってきた。

そのために塾に通わなければならなくなり、友人だって競争相手としか考えられなくなってきている。

核家族化が進み、内湯(この言葉も古くなった)が多くなり、大衆浴場へ行くこともほとんどなくなり、肌をふれあう機会が少なくなった。

最近では、修学旅行の際に、海水パンツをはいたままで風呂に入る生徒までいるようだ。

昔は 「地震、雷、火事、親父という、怖いものの順序をいう言葉があったが、最近は、親父が 怖いと思っている子どもが少なくなった。

親父が怖いという子どもによく聞いてみると、

「殴られるから怖い」 という。 なぐられなくても怖いのが親父の存在であり、世の親父たちは、それだけの存在を持っていたのだった。

殴って怖がらせるのは、痛さへの恐怖であって、親父に対する畏敬の念とは違うのだ。親父も母親とともに 「うるさい」存在になってきているように思っている。

最近は殴ることもできなくなった親が増えてきている。 なぐることは、決して良いことではないが、新聞の報道によると、ある中学校のPTA総会で

《親は子供を殴れませんので、先生がもっと学校で殴ってやってください》

との決議がなされたとのことだ。馬鹿げているような話だが実話なのだ。

最近、このような親が増えてきる。子どものしつけができなくなってきているのだ。しつけをされて育ってないので、しつけの仕方も分からない。しつけをするのは学校の仕事だと、大きな勘違いをしている親が多くなっている。

   この地球上には、多くの国がある。世界中のどの国でも、子どもには、厳しいしつけをするものだ。 しつけとは、いろんなことを (子どもと約束するということ ) なのだ。 

例えば、子どもが小さい頃に、一日に十円の小遣いをあげると約束しているとしても、ある日、お母さんのお友だちが来て、話に夢中になっているときに、子どもは、寂しいからグズグズ言う。その時、お母さんが(十円あげるから遊んでおいで)と、約束事とは別の十円をあげてしまったとすると子どもは考える。

誰かお客さんが来たときには、別に十円もらえるものだと。子どもとの約束を破るのはたいてい大人の方なのだ。大人が先に約束事を破っておいて、今度は叱るのだ。子どもは、何が何だか分からなくなってくる。

ある時は良いことだったのに、ある時は悪いと叱られる。 子どもは戸惑ってしまう。しつけには、必ず制限を伴うものだから、例外を作ると、子どもの側は、都合のいい方を選んでしまうのだ。

ヨーロッパでも、アメリカでも、普通の家庭では門限が厳しく決められている。家族の一員として仕事の分担もしないのに、たくさんの小遣いがもらえる国は日本の他にはあまり聞かない。 子どもは勉強していればそれでいいという国は、世界のどこにもないはずです。子どもに一流ブランドの服を着せている国は、日本だけかもしれません。

 私が、このような話をすると 

 「それでも、日本は世界一の国になれたのでしょう」と反論する人が必ずいる。 (日本一も、つかの間であって、泡と消えたのだが)

現在の日本を築き上げたのは、どの世代の人たちだったと思っているのだろうか。

世界にも例のないほどの甘えを許し、育てられた人たちが、大人となった時の日本は、かなり困難な、人材不足の国になっていると、わたしは思うのだ。(2024年の今、わたしの危惧した状態になっている)