中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(57)私を守ってくれたのはだれなのか

   《 命が助かった 》

  課長は自分の席に戻り、しばらく応接室に戻って来ない。窓から見える景色はたそがれ時であり、行員は課長のほかはすべて帰ってしまったようだった。

 やがて課長がきて

『まいりましたな。お話ししたとおりに災害融資はできません。ご理解いただいていますよね』

『はい、理解はしておりますが納得はしておりません』

『そこで、お話があります。あなたの熱意にほだされました、災害融資は規則によりお出しできませんが、普通融資をして差し上げましょう。災害融資は無利息で十年返還ですが、普通融資は、利息が必要で、五年返還です。それでよろしいですか』

『ありがとうございます。恩に着ます』

この時の課長さんの情けある対応をいつまでも忘れることはない。

 淡路に戻って、鉄田さんに「普通融資」が決まりましたので、早速工事に取り掛かってくださいと頼みに行くと、入金が確認されてから工事を行いますという返事だった。冷血な人だなと思ったが、こうでなくては金もうけが出来ないのだという教訓でもあった。

 国民金融公庫から入金があって、工場建設が進み完成した。

住宅部分は別の業者に依頼し、キッチン、風呂、寝室などを作り、三月末に新工場に引っ越すことになった。恵美が小学校入学をその地で迎えることになり、四女の藍子は一歳半になっていたが、不思議なご縁で、近所に住んでいた稲本先生(私の小学校一年の担任であった)に、昼間の間だけ預かっていただくことになった。

  《 幸運が舞い込む 》

 運の悪いこともあったが、幸運もあった。養鶏のほうは、新しく雛を入れるのをかなり前から止めていたが、かなりの成鶏がいて、手を抜くことが出来ないので、引っ越した場合の、その後が心配だった。そういうタイミングで、一人の人が現れたのだった。この家を鶏も含めてすべて込みで売ってほしいというのだった。

 その話は渡りに船のような話だが、どうも信じかねた。どうみても都会のサラリーマン風で、この街の人ではない。養鶏をしたいなどというのは、尚更おかしいと思ったが、ありがたい話でもある。佐野の伯父に相談すると、売ってしまおうということになり売り渡した。自分の手で建てた家が売れるというのはうれしいことでもあった。

  家を売って、思い残すことがなくなって、ほっとしたし、叔父に借りていた土地のお金も上乗せして返すことができたのもよかった。それにしても、なんと素晴らしいタイミングなことか。直前まで、縫製工場化していた家だった。まるで引越しをするタイミングを見計らっていたようなタイミングでの話だった。

 台風被害を受け、なにもかもが終わってしまったと思っていた人生が、これで少し楽になった。すてる神あればひろう神ありだな~とおもったが、ふと、庵の山に石を埋めたことをおもいだした。激動の半年間をやっとのり切ったが、ストレスがたまっていたのか、幸せをつかんだはずが、新しい工場の中で、一人で遅くまで働いていると、なぜか涙が出てきて止まらない。うれし涙ではなく、なぜか不思議な気分になって涙がでてくるのだった。妻に、どうしてなのだろうね、今が幸せな時だと思っているのに、涙が勝手に出てくるのだよと言ったが、返事はなかった。

  『新しい生活の始まり』

 昭和41年4月、なにもかもが、リ・スタートしたような生活となった。恵美の入学と共に、大きく分割された地域のPTA会長に選ばれるなど、地域社会とのつながりもうまれた。工場部会の副会長もそのまま継続となった。仕事も順調であった。

 作業手順の部分ごとに点数をつけ、一日の作業量を掛け合わせて計算して給料に反映させたことでミシン工さんたちの収入が大幅アップにつながり、だれもがやる気満々になった。

 ミシン工も増員し、毎朝7時15分に車を出して、塩尾という町まで従業員を迎えに行く。

 わたしには、出来上がった製品を神戸の会社まで持っていき、材料を受け取ってくるという仕事もあるが、当時はフエリーボートを利用するほかない。三日に一度は神戸まで行かなければならないが、フエリーボートというのは、往復共に待ち時間が長いのが厄介で、一日の大半を往復に費やすことになる。

 食材の買い出しは、ずっと以前から私の役割で、以前はバイクで、この当時は軽四車で買ってきていたが、少しでも妻の負担を少なくしようと思ってのことだった。

 そのころは仕事が十分あり、ひたすら仕事をしていればよかった。生活にも余裕が生まれ、冷蔵庫も洗濯機も家族に合わせて大きくなり、いち早くカラーテレビを購入し、自動レコード交換システム付きの大きなステレオも持っていた。

 時間があれば、ケーキをつくったり、オルガンを弾いたりしたものだった。そのころ遊びに時おり来ていた佐野の叔母の娘二人(まきちゃん・りえちゃん)が、ずっと後に語ったところによると「これが文化的な生活というものか」と思ったという。

  給料計算が複雑で繁多になり、シャープの電気計算機を手形で買った。今なら千円でも買えるものが、どうしてあれほど高かったのかと思う。

 移転二年目に子供が生まれることになったので、ベビーベッド&サークルを手造りした。釘を使わないでビスを使い、穴をあけてビス止めにする。一本一本の細い桟の部分にペーパーをかけ丸くし、子供が怪我をしないようにと配慮しながら、かなり大きなサイズのものを作った。こどもが這いだすほどに成長し、立ち上がるようになれば、ベッドの部分を取り外し、サークルになるようにと配慮したのだった。

  昭和42年5月25日に五女が生まれた。キチンの隣の部屋にベビーベッドを置くと目がよく行き届くだろうと思った。名前を「真凜」とつけた。夜中に必ず二度は泣く。妻は疲れているのだろう、ぐっすり眠っていて気がつかないので、私が起きて行って湯を沸かし、缶ミルクを溶かし、手の甲に落として温度を確認してから与える。冬場になると、ミルクの温度調節がむつかしい。そのころには母乳があまり出なくなっていたからだった。缶ミルクでも順調に育っていった。