中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(57)

「復興への厳しい道のり」
  その頃、私は津名町商工会・工場部会副会長をしていた。
この町には結構多くの工場があったが、工場創立間もない私が
副会長に選ばれていた。
  商工会へ復興のための相談に行った際に、「あなたの工場は
大損害を受けたのだから、そのための資金の貸し出しを受けられる
かもしれない」という。一縷の望みをそれに賭けることにして、
とりあえずは工場建築のための土地探しにかけずり回った。当時の
町長は選挙の時に随分応援した人だったし、彼は顔が広いので適当な
土地を探してもらえないだろうかと相談した。彼は3日ほどで前の
工場とは反対にわが家から東の隣町に土地を見つけてくれたので、
持ち主と会って契約を交わした。
 さて問題は建築資金である。その時の台風は大きな被害をもたらし
たので政府の「激甚地指定」を受けていた。商工会の担当者が言う
には、激甚地指定があれば支払いが長期の資金融資を受けることが
出来ると言う。その場に居合わせたのが工場部会長で彼は大きな
鉄工所を経営していたので、「それならば私のところで建ててあげ
ましょう」と引き受けて下さった。話はとんとん拍子に進み、コンク
リートの基礎工事が終わり、鉄骨が組み上がって棟が出来上がった。
後は外装と内装を残すという段階で、とんでもない問題が持ち上がった。
 商工会から「今回の融資がだめになった」と言う連絡である。
すぐさま商工会へ出向き事情を聴くと、「災害融資の対象ではない」
と回答が来たと言う。工場部会長も同席していたので、それでは工場
建築もしばらく様子を見ましょう、と建築中止となってしまった。
 後にも先にも進めない事態である。土地も借り、工場も半分まで
出来ているが資金が借りられない。このままでは借金が増えるだけ
である。「にっちもさっちもいかない」という言葉通り、どうにも
ならない局面に立たされた。
 神戸市の国鉄(JR)元町駅から海側に向かってしばらく行くと
「栄町通り」がある。かつて商社、海運会社のビルが軒を並べていた
通りである。そこに「国民金融金庫」神戸支店があり、災害融資を
担当していた。
 ある日、そこに出向いて担当者と面談した。私と同年齢らしき
担当者は、丁寧に説明して下さった。災害融資とは「元に復す」と
言うのが基本であり、あなたの場合、工場そのものはあなたが内装
したようだが、あなたのものではなく工場は借りものである。よって、
災害融資の対象にはならないのです・・と。
 そうですか・・と、簡単に引き下がれない。このまま家に帰ったの
では死活問題である。上司の方に会わせて下さいとお願いして課長と
面談した。課長も同じ説明をして、「残念だがこれは法律なのでなん
ともならない」と繰り返すばかりである。私は、製材所を工場に
仕上げ、かなりの投資をしてきたので、今回の台風で損害を受けた
のは私では死活問題ですから」と、5時を過ぎ、行員はみんな帰って
行ったが、私は応接室から動かなかった。
 静かな時が流れた。課長も黙っていた。私も黙ってじっと歯を食い
しばっていた。どれぐらい経ったときだったか覚えていないが、課長が
言葉を発した。「わかりました。あなたの辛い立場が良く理解できます。
しかし何度も言ったように災害融資は出せません。でも、普通融資なら
特別に出せるように手配しましょう。それでいいですか?」と。
 普通融資なら償還期間は5年と短いし金利も高い、たぶん5%だった
と思う。しかし課長の言葉は天の恵だった。その言葉を鉄工所にも
連絡し、工場建築が再開された。起死回生の瞬間だった。
 工場は、年末までにほぼ完成し、年末には引っ越すことになった。
私が建てた家に買い手がついた。土地の持主が土地を売りたいと言う
ので、佐野の伯父さん(叔母の嫁入り先)に相談し、売れた時には
折半しようと土地買い取り資金を出してくれていたので、買い手が
現れた時に、すんなりと売り渡すことが出来たのだった。この伯父
叔母は、私にとってとても大事な存在だった。これからの話にも何度も
登場する