中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(56)私を守ってくれたのはだれなのか

       《台風で工場が全壊》

     9月10日のことさえなければ、何もかも順調にことが進んでいたのに、とつぜん悪魔が襲ってきた。昔から、「二百十日」と「二百二十日」は台風の襲来が多いとされて恐れられていたものだった。立春から数えて二百十日太陽暦の九月一日ごろにあたり、二百二十日は九月十日辺りになる。古くから、稲の開花期にあたり、農家の厄日と暦に記載されていたほどものだったのだが。

    1965年9月9日の夜から強い風になってきた。当時は現在のように詳しい台風情報はなく、台風が来るらしいという程度の認識だった。朝晩には鶏に餌と水を与え、縫製工場に駆け付けるというあわただしい日々を送っており、十分に台風情報を聞いていなかった。深夜になるほど風が強まり、西側の台所にしている「尾垂(おだれ)」の部分がふわふわとしている。地震対策ばかりに気を取られていて、台風対策は考えていなかったな、尾垂の両サイドに補強材を打ち込んでおけばこんな心配はいらなかったのにおもいながら、万一おだれが飛ばされると、室内に風をふくむと危ないぞとおもった。おだれの桟にロープをかけ、妻と恵美に「ちゃんとひっぱれよと」言った。

この時に恵美よほど恐怖感を覚えたのか、その後50年以上たってもあの時は恐ろしかったといわれ、独りで建てたといばっていた面目をなくしてしまう。

家の裏は、庵の山と池の堤防で風を防げるが、家の前方は田園が拡がっていてまともに風を受けていたのだ。ロープを引っ張っていたのは、半時間ほどで、風の向きが変わり、なにごともなく過ぎ去った。

  翌朝、通常通りに工場へ出かけた。いつもは、少し手前から見えるはずの工場の屋根が見えない。そばまで近づくと、裏山が見えて工場がない。上から押しつぶされたように屋根がぺちゃんこに潰されていた。

私は即座にガソリンスタンドへ行き灯油とバケツ3個を買い求めて戻り、真っ先にミシンを掘り出して、バケツの中に入れて洗ってくれと言った。バケツに灯油を満たした。ミシンは泥水にまみれていたが灯油で洗ったのが幸いした。従業員も駆けつけてきてくれて、片づけを応援してもらった。

家主の所に行って、工場を再建したいと申し出たが、工場の土地の持ち主は別にいて、地主は「あの土地は空き地にしておきたい」という。泥にまみれた製品も材料も捨てるしかない。

 とりあえず、ミシンはていねいに洗って、使えるようになりそうなので、わが家まで運びこみ、神戸までいって事情を話し、あたらしく材料を受け取って来た。工場があった塩尾まで従業員を車で迎えにいき、急遽狭いわが家の中が作業場となるという、ひどい状態になってしまった。

 三台のミシンと、材料を置いて作業をすると、のんびりくつろげる場所がなかった。 三人の子供を守らなきゃいけないし、鶏の世話もしなければならない。卵もきれいにしなきゃならない。目の回るような毎日だった。このままではやっていけない、どこかに工場を作らなきゃと気持ちが焦った。

佐野の伯父に「どこかに貸してくれそうな物件がないだろうか」と話していたら、叔父の友人であり町長をしていた平岡さんが、土地を世話してくださった。町長選挙の前から、私も支援していたので何十回と面識がある方で、隣町の生穂で、農家と倉庫の間にしか出入り口がないが、それでもいいかという。せまいが出入りはできることを確認して、持ち主と契約した。

  ちょうどそのころ、私は「津名商工会・工場部会副会長」をしていた。部会長は鉄田さんで、商工会館の中で「奥山さんの所は大きな被害を受けたのだから、災害融資が受けられるのではないか、この町には大きな災害を受けたところが多く、政府が「激甚災害地」に指定しているので、被害写真などと一緒に提出すれば、認められるはずだ、会長さんのご意見はと、商工会会長に話を向けると、もちろん出るに決まっていますよ、という。鉄田さんが、災害融資が受けられるのなら、うちの鉄鋼部でやらせましょうと言って下さる。とんとん拍子で話が進行し、災害融資を申し込むべく記入し、写真を数枚添えて提出した。

  鉄田さんも、素早く行動を起こし、軽量鉄骨で30坪の骨組みが出来上がり、屋根にスレートを張れば、あとは内装に移れるという直前で、作業が止まった。

  《災害融資断られる》

 不審に思い問い合わせると、国民金融公庫から、「災害融資」を拒否されたようですよ。商工会へ行って聞いてごらんなさいという。たといそうだとしてもこのままじゃどうにもなりませんから、工場として使えるように仕上げてください。きっとお支払いしますからとお願いしても、頑として、聞き入れてくださらなかった。

 商工会へ行って説明を聞くと、「災害融資というのは、元に復すという意味があり、以前に借りておられた工場主が以前の状態に戻すのであればよいが、借りていた人が、どれほどひどい災害を受けたとしても、元に戻すのでないということで、認められないということです。私たちも、初めて経験することで、知らなかったのです」という説明を聞いた。よく理解はできたが、納得はできなかった。

  神戸市の大丸デパートに近い栄町通りにある「国民金融公庫」へ行った。融資課長にお会いしたいと告げた。 課長が出てきて、窓際の部屋まで案内してくださり、ご用件はとおっしゃるので、事のいきさつを述べ、何とか助けてくださいとお願いしたが、商工会で聞いたのと同じ文言の説明があっただけで、「あなたの要求には応じられない」というにとどまった。 金融公庫は、国のものであって、私的な機関ではなく、法律に準じて運用しているのです。あなたが、どれほどひどい被害を受けられたかは、写真をみれば十分にわかります。お気の毒だと思いますが、法をまげて、災害融資をするわけにはまいりません。と、ていねいにおっしゃる。

 いちいち、お説ごもっともという感じになるのだが、わたしは、ハイそうですかと帰られない。

『課長様のおっしゃることは、よく理解できます。その通りだとおもいます。しかし、私がこのまま帰ったら、建ちかけた工場の分まで負債が残ってしまいます。工場が完成してこそ、今後にむけて再建していけますが、このままだと、帰りのフエリーから海に飛び込むしか私には道が残されていません。どうか、わたしに今一度のチャンスをください』とお願いした。