中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(53)私を守ってくれたのはだれなのか

《夢なのか幻なのか》

 中学二年生のころに庵の山の十三重石塔が転居したときのことはすでに書いた。 毎日のように丘の上の家から眺めていた庵の山のふもとの地で私が家を建てることになろうとは運命のいたずらのような気がしたのだ。

   私たちは庵の下に立てられていた中村家のことを「庵の下の家」と呼んでいた。大きな塀に囲まれた立派な蔵付きの家だった。丘の上の家とは較べものにならない大きさだった。

   今里の叔母の娘を1歳の時から祖父母が預かったために、その赤ちゃんのお守り役を任され、朝一で庵の下の家まで(山羊の乳)をもらいに行っていた。山羊の乳の代金などはどうしていたのか知らないが、毎朝、必ず庵の下の家に出入りしていたのは私だった。

その庵の下に私が家を建てようとしている。丘の上の家から追い出されるようにして出て行った私が、隣に(丘の上の家からは隣になる)家を建てようとしている。不思議なめぐりあわせとしか言えないが、丘の上の人たちから見れば、なんでまた?という思いだっただろうと思う。この場所を狙ってきたわけではない、祖母が持ち掛けてきた正木さんとの対面から、不思議な縁がつながってこの場所にたどり着いたというしかない。

   それまで誰にも言わずに持っていた「石」を庵の山に埋め戻したのだったが、埋め戻したという話も、その夜に夢を見た夢の話も89歳の今になるまで誰にも話したことはない。

話しても笑われるだけか、気が変になったかと思われるだけだろうと思っていたからだった。 ともかく夢の話を書いておこう。

     庵の山の東側に崖のようになっている場所がある。庵の山の東側には池からは絶えず余分な水を捨てる「はけ」と呼ばれるところから水が流れる水路がある。アカハラやイタチが住んでいた。

子どものころ、時おりイタチ捕りのおじさんが来ていて「この川に入るなよ。ここにはイタチ捕りの罠が仕掛けてあって危ないからな」と注意されたことがあった。当時はイタチは襟巻に高く売れていたのだろう。

     謎の石を庵の山に埋め戻した夜にその夢を見た。

庵の山の東側の崖のような所からわたしはだれかに導かれるように、引き釣りこまれるようにして、気が付けば大きな池の底にいたのだった。そこには黄金色ともいえる大きな鯉が一匹いた。

鯉が口をきいた。

「庵の山に石を戻してくれて嬉しいよ。十三重石塔が運ばれたときにこぼれ落ちたたくさんの石を子供たちが池に投げ込んでくれたのでよかったよ。投げ込まれた石は、全部この私が集めて持っている」

「あなたはだれなのですか」

十三重石塔の主だと言っておこう。今日はお前が石を埋め戻してくれたお礼に、お前をここにつれてきてもらったのだ」

「変なことを聞くようですが、数年おきにこの池では鯉取り行事が行われますよね。そんな立派な色をした大きな鯉だと捕まってしまうのではないですか」

「そのような心配はいらないよ、鯉取りの人たちに見つけられるなんてことはありえないからね。もしわたしが、その気になれば池の大きな土堤に穴をあけて街を水没させることだってできるんだよ」

「じゃあ、いつまでもここにいるんですね」

「そうだ、死ぬこともない。ずっとここにいるよ。お前のように十年間も「石」を大切にしてくれた人は他にいないから、わたしはお前を守ってやることを約束しようと、ここへ招いた。頑張るがよい。このたび庵の下に家を建てるそうだな。うまく建てられるように見守っているよ。おまえを裏切るものには私が懲らしめる」

そう言って鯉は大きな尾ヒレをダイアモンドのようにピカッと光らせて潜っていった。

夢はここで終わった。ただこれだけの夢なのだが、その後において約束が守られたような気分がしないとは言えない。

     《 自分で家を建てようと決心して 》

佐野の伯父に自分で建てようかとおもっているというと、それはやめておけ。大工さんに頼めといわれたので、南(地区)の柳の化粧品屋さん近くの大工さんの家に行き、事情を話して、小さな家でいいから建ててくださいとおねがいし、数日後に来てくださることに決まった。 

  約束の日の時間に現地に行くと、大工さんは来ず、紙が置いてあった。申し訳ないが、ここの仕事はやれませんと書いてある。ゲンの悪い土地だと知っているのだろうかなとおもった。

仕方がないから、自分で建てようと決心し、とにかく木材一本ずつ、穴の開いている部分の寸法を測り、一本ずつの図面をかき詳細に調べた。夜は、どのような家を建てるかの図面を書き、木材の使い方を一本ずつ考える。新しい木材を使う場合と比べ、十倍も手間がかかることだったが、大きな木材を買う金などないのだからいたしかたない。

 まず建てようと思う場所の土地を固めなくてはと、槌で土で打って固めていった、今だったら、コンパネを使い、コンクリートを流し込んで、基礎をつくればできることだが、敷石があるのでそれを使おうとかんがえたのだった。

土固めをしながら、土地の水準を取らなきゃとおもった。水準がなければ家がまっすぐに建てられないだろうとおもった。家を建てるとき、敷地の角々に囲いのようなものを作り、糸が張られていることを思い出した。

 とにかく養鶏が先なのだから、われわれが住む家は入り口には藁で編んだムシロでもぶら下げるだけの(小屋)でもいいとおもっていたのだが、日が経つと欲が膨らみ最初の考えと大きく違い、、いつの間にか、四間×六間の24坪の家になっていた。この半分を住まいとし、半分は育雛室、飼料置き場にする予定だ。図面はできたが、どうやって建てようか。何の知識もない、大胆すぎる行為だった。

 学ぶうち、「水盛器」を使って水準を取るということが分かり、断られた大工さんの家に伺い、すみませんが、水盛器というものを見せていただけるでしょうかとおねがいした。そこにおいてあるブリキ製のものがそうですよと、おかみさんが教えてくださった。ちょっと見ただけで原理が分かった。

町のど真ん中に、古道具屋さんがある。そこで探しているうちに、細くて縦長の味噌桶があった。あとは簡単、底に近いところに横穴をあけ、それに合う筒を入れ、ビニールホースを差し込んで完成した。敷地の真ん中に桶を置き、水を満たし角々にホースを持っていいき、印をつけていく。それで水準が取れたので、糸を張り、設計図に従って、敷石を置く。石の大きさ高さがバラバラなので、土を固めながら、すべての敷石の水準を計っておくなど、手間はかかったが、まずはスタートできた。このように書けば簡単だが、実際にやれる人は1%もいないだろうと思う。

もっとも困難だったのは、梁と柱のつなぎ方だった。素人のくせに金具で固定する方法を取りたくなかった。その要因は南海地震の経験だった。十二歳の時に南海地震があった。地震の揺れを感じて全員が外に飛び出した。家が揺れて、いまにも倒れるかと思えるほど傾いたが、不思議なことに元に戻ったのだ。その時にわかったのだが、軽量鉄骨の場合だと、いったん傾くと、窓の開け閉めが出来なくなるなど、元には戻らないが、金具を使わずに建てた家の場合は、復元するという。だから、桁と梁は「あり」と呼ばれる方法でつなごうとしたのだが、これが厄介な手法だった。二段構えの構造の穴を作って、はめ込むのだ。大工の初心者では、難しいと言われるむつかしい手法を会得して使った。