中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(42)

どうして水盛器と言うのが必要なのかさえ、数日前まで私は知らなかった。
家を建てるには水準を決めなければならない。今なら立派な器具があり
簡単に水準を取ることが出来る。そして、基礎コンクリートをすれば万全だ。
 
しかし、当時はまだ柱の土台に石を使っていた。単独の石もあれば延石
と呼ばれる石もあった。石の大きさはさまざまだ、その上に柱を乗せる。
今と違って高度な計算、技術が必要だった。
30坪の家を立とうとすれば、その土地のレベルをしっかり把握しなければ
ならない。建築現場などでよく見かけるが、用地の四隅に小さな杭が打たれ
それに横桟が打たれている。あれには水準を計って印が付けられている.。
 
そこが大切なところで、大工さんにやってもらわないとできないだろうと
言われていたと言うわけだ。だから、せめて「水盛器」だけでも、どんなものか
見ておきたかった。何のことはない・・・これなら作れると思った。
帰路、骨董や古い家具などを売っている店に立ち寄って、いいものを見つけた。
細長い味噌桶だった。ビニールホースを買い求め、味噌桶の下に穴をあけ、
竹を差し込み、それにビニールをはめ込んだ。
立派な?水盛器が出来上がった。
しかし、それをどう使うのかが分からない。考えに考えて理解できた。
建築予定地の四隅に杭を打ち、水盛器を敷地の中心に置いて、ビニール
ホースを四隅に持って行き、それぞれに印を付ける。
私が作った水盛器は立派に役目を果たしてくれた。
 
さて、そこからどうする?? 弁当を持って本物の建築現場へ見学に行った。
じっと見つめる私に、現場の大工さんが言った。「何しとるんや」「ちょっと
見学を」「見学してどないすんのや」「自分で家を建てようと思って」「アホかいな・
そんなことできるわけないやろ」。と
柱に穴をあける「ほうぞ」という。「ほうぞ」の作り方にもいろいろある。
柱と柱のつなぎ方もいろいろある。柱と梁のつなぎ方にもいろいろある・・と
教えられた。難しいと言われると燃えるタイプだけに、意欲が湧いてきた。
 
農繁期には長期に学校を休まされていたから、一番つらかったのは数学が
遅れることだった。基礎が分からなくなりついていけなくなっていた。
数学の試験に白紙答案を出して、担任の先生に叱られた。分からんでも、
少しだけでも書け!!と。英語が全学年上位のお前が、数学だけ分からん
はずがないと・・・。数学が苦手だった。
 
数学が苦手だった私が経理業をやっているのが不思議だが、経理と数学
は、全く関係なかった。しかし、大工仕事と数学には大きな関係があった。
手持ちの古材木を睨みながら、自分が作った設計図の中に、どのように
活かせるのかを思案した。穴だらけの黒い汚い古材木を使わなければ
ならない経済力が恨めしかった。
 
もちろん古材木だけで家は建てられない。主要な柱や梁など、買えば高価な
部分だけ古い木材を使い、あとは新しい木材を購入しなければならない。
町の製材商で、計算してあった材木を一気に注文した。一気にと言うのには
理由があった。それらの材木を1カ月後に届けてもらえるよう手配を済ませた。
 
天気の日も、雨の日も鋸切りで切り、鑿をもって穴をあけた。自分の設計を
信じて、柱や梁に穴を開けた・・「ほうぞ」を掘って行ったのだ。
ある雨の日、合羽を着ながらのみを持っている私に近所のおじさんが話し
かけ「たけっさんよ・よくやっているが、狐が出てこないかい?」という。
わたしは「狐が出てきたら挨拶しようと思って待っているんだけど、狐もタヌキ
も出て来んわ」と言うと「たけっさんには、かなわんな~。狐もタヌキも負けた
と思うているんやろうな」と言いながら去って行った。
 
コツコツ、広い敷地内で、一人で大工仕事をやってきた。春の初めから
の半年間だった。
遂に棟上げの日が来た。これまで、無視してきていた祖父母や伯父たちも
放っておけなくなって、棟上げには手伝いに来るけど、ほんまに、棟が上が
るんかいな・・・と心配顔だった。
朝から夕方までかかって棟上げが完成した。祖父母が棟上げの餅を用意
してくれたので、「餅まき」をして近所の人たちに喜ばれた。