中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(49)私を守ってくれたのはだれなのか

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     さっそく白洋舎の結城部長あてに手紙を書いた。現在の仕事のこと。欧米の事情を知ったことなどを書いて、採用してほしいと書いて送った。

結城部長からは、しばらくしてから、このような熱心な手紙をいただいたのは初めてですが、白洋舎は創業以来、わが社の社長はクリスチャンからの採用を定めており、社員の紹介がなければ採用しないようになっております。という意味の文章だった。紹介していただく方はおりませんが、私は神学校に行っていたこともある旨をかいて送ったところ、淀屋橋で面接しましょうと連絡してくださった。

  淀屋橋のすぐそばにある支店に面接に行き、その場で採用が決まり、浜寺営業所に十日後に出向くようにと言われた。千林のクリーニング店には半年間居ただけだったが、「手の職」としては、いつでもクリーニング店を開業できるほどの腕前になっていたと思っている。

白洋舎に入社するまでに工場見学をさせていただいたが、すべてアメリカからの輸入機材で流れるような工程で、作業が進められていて、カッターシャツなどは折りたたまないでハンガー配達だった。糊を使わないのでおしゃれな人には喜ばれるだろうとおもった。

 浜寺営業所の主任は小柄で穏やかな人だった。さっそく主任に連れられて営業コースを自転車で回った。

驚いたのは、浜寺の住宅街だった。どの家の敷地も三百坪はあるという大きさで、立派な塀が続いている。戦前、戦中のお金持ち族の人たちが多く住んでいた地域だったようだ。

『空襲にはあっていないが、戦争前はもっとすごい邸宅街だったのだよ。戦争で、どの家もおちぶれたからね』と主任が説明してくれた。落ちぶれても、どのお家にも女中さんが雇われていた。

『女中さんも、こういう所の女中をしているとしつけも厳しいし、嫁入りするときには、S社の部長さんの家でご奉公していましたとか言って、箔が付くのだよ』

なるほどと思えるようなことをいろいろ教えてくださった。こういう家は、出入り業者にもマナーを求められ、失礼な物言いは嫌われる。 そこが白洋舎を大事にしてくださる要点でもあるのだよ、と。そういう意味では、これまでの経験が大いに役に立った。私はていねいな物言いを心がけて生きてきたのだから大丈夫だと自信になった。

そのころМ子さんとの交際が深まっていた。千林の店をやめてからだ。以前に働いていた九条商店街のあたりで、四畳に押し入れだけという部屋を間借りて同居し始めていた。狭い廊下をはさんだ向かいの部屋は水商売風の女性が借りていて、ときどき男を連れてきて昼間でも営みを始める。ふすま一枚だから全部聞こえてくるというような所だった。一階は喫茶店になっていて、野球とか、相撲、プロレスのテレビ中継に客があふれていた。テレビが普及していない頃のはなしなのだ。

まだ二人とも収入が少ないころで、М子が下の台所を手伝っていて大家さんの飯茶碗を壊したので弁償しなきゃという。どちらも定期券を持っていたから、私の本を数冊もって道頓堀沿いにある古本屋さんで換金した。帰りにご馳走を食べて戻った。あの頃は、古本を高く買ってくれたもので、何度かその本屋さんのお世話になった。

  昭和三十二年三月三日に島之内キリスト教会で結婚式を挙げた。会員制の貧しい式だったが多いに盛り上がった。この時に15歳以降で初めて、丘の上の家から祝い金をいただいたが、もちろん結婚式には参列してくれない。お金をもらったことは、後にも先にもこれ一度だけだった。

わたしは二十三歳になっておりМ子さんは二十六歳になったばかりだった。白洋舎からも課長たちが祝いに来てくださりうれしかった。しばらくして、阪急宝塚沿線の岡町営業所に転勤になったのを機に、思い切って石橋駅近くの新築アパートに移転した。彼女はどこに行っても得意の洋裁技術を生かして仕事に困ることはなかった。

新しい住まいから岡町営業所までは、近くて通勤には便利がよかった。主な得意先回りは「阪急住宅」という所が中心だった。阪急電鉄は、何もない野原の中に鉄道を敷くに際して、真っ先に宝塚に大きな娯楽施設を作り、客を呼び込むとともに、沿線に「阪急住宅」を立てて住民を増やしたのだった。阪急住宅はやや上層の会社員を目当てにして作られたものであり、顧客の層としては安定していた。白洋舎の料金は、一般のクリーニング料金より一段高く設定されており、白洋舎が出入りしているだけで家の格も上がるという按配だった。ほかの業者を出入りさせては、ご近所から白い目で見られかねないと思う顧客も多かったのだろう。

 

  七月の中旬辺りから体調に変化があった。会社の同僚たちからは新婚疲れじゃないのと冷やかされたが、そういう感じじゃなく、だんだん体が動かせなくなってきた。池田の駅近くの病院で診てもらったら「肝臓だな」という。とにかく毎日、点滴を受けに来なさいと言われて通っていたが、ついに病院まで歩くこともできなくなった。

部屋の中に一切の食べ物がなくなってきた。子供のころから、なんども飢えに苦しめられたが、これほど何もないというのは初めての体験だった。妻は収入が入ってくるのは数日先になると言い、魚屋さんに、新聞紙を切って持ってきてくれば買い取りますって張り紙があったという。布団に、うつ伏せになったまま、包丁で溜まっていた新聞紙を、魚を包んで客に渡す大きさに切った。妻が魚屋さんに持っていくと買って下さったようだ。その金で、麦とスジ肉を買ってきてたっぷりの量の雑炊を作ってくれた。それまでの人生の中で、これほどうまいと思ったことはないと思えた。四日間、これを食べて飢えをしのいだ。

病院で点滴を打ってもらい、帰りに本屋さんで「簿記の入門」(太田哲三著)と買い求めた。金のない中で、思い切っての支出だった。もし、この本に出合ってなかったら、全く違った人生になったかもしれないと、今でも思う。他の簿記の本ならば、私は勉強を投げ出していたかもしれないからだ。

      まえがきに「簿記というものは、闇夜に出港する船のようなものだ。羅針盤を信じ、たよりにして進まないと、目的地に行くことが出来ない。理屈を考えるより、羅針盤を信じなさい」というようなことが書かれていた。来る日も来る日も、布団にうつ伏せになって本を読み、ノートをとった。66年後のいまも「まえがき」の内容を覚えているのは、よほど肝に銘じたからだろうと思う。

  

  私が、年金をもらえるようになった時に気がついたのだが、『白洋舎』が最初の勤務地であった。