中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(48)私を守ってくれたのはだれなのか

   《育った家には知らない人がいた》

父が死んだ年の秋に家を出て、一度も連絡さえもしてなかった淡路島の家で、この疲れ果てた体をしばらく養生させてもらおうと考えた。甘えるのは私の好みではないが。このままではもうすぐ野垂れ死にしてしまうだろうと考えて。

ほかに行き場所がなかったからだ。神足の母のもとに戻ろうとは思わなかった。農伝神学校に行っていたことさえもだれにも伝えていなかった。

奥山家とは縁を切る覚悟で出て行ったのだから仕方がない。優子叔母の死を知って、私の後ろ盾になってくれる人は、もういないと肝に銘じている。いまは健康を取り戻すことだけを考え、恥を忍んでもどった。

丘の上の家に行くと、見知らない女性がいた。六男・栄治の嫁さんだった。自分の居場所を連絡してないのだから仕方がないが、四女の美津子叔母、五女の敏美叔母も嫁に行っていた。そして、義母のきよのさんも再婚して家を出ていた。

祖母には「体調がよくないので、しばらくだけ養生させてほしい」と頼んだ。家の中で寝るのは約一か月ぶりだった。十日もすると少し良くなったが私の持ち金はほとんどなくなっていた。 お金を貸してくれとは言えない性質で頼めない。近所の女子中学生に声をかけて、週に二度英語を教えるから来ないかと呼び掛けたら、三人が来た。すこしでも自分で稼ぎたいと思ったのだ。

二週間ほどして、祖母が牛小屋の前に私を呼び出した。

『嫁をもらうときに、お前のことは一切先方には話してないのだよ。先方はお前のことは何も知らない。だから、お前が戻ってきて家にいると嫁が心配するだろう』といった。

古い法律では私が跡継ぎになるのだから、先方が心配するだろうこともよく理解できる。

だが、祖母のその言葉を聞いて、完全に自分が無視された存在であることを再認識した。家族の一員でさえないというのかと腹が立ってきた。腹が煮えくりたったが、何も言わず黙ってトランクを持って即座に家を出た。午後4時過ぎだった。野宿はやめようと宿をと探した。

うまいぐあいに街中に貸間があり借りることが出来た。翌朝から仕事さがしに町をうろついた。小学校の校門まえを二十メートルも歩くと溝沿いの脇道があり、そこを右に折れると鉄工所が求人していたので、面接をうけ即座に雇ってもらった。どこかの下請けだろうが、ミシンの部品の一部を作る工場だった。

旋盤を教えられ、その日の内にできるようになって、器用だなと人材として認められた。務める際に最初に半年から一年ほどの間でいいですかとお願いしてあった。それでもいいよと雇われたのだった。旋盤使うのにも慣れて頼りにされていたが、同僚がしきりに私を家に呼んでご馳走してくれる。食事が終わると妹に目配せして私を誘いだせと言ってるようだ。

海岸に近いところなので月夜の渚で話をしたが楽しくもない。こういうこと三度ほど続いたので、潮時と考えて鉄工所には来月末にお暇しますと伝えておいた。

ちょうど半年間お世話になった。その半年間の夜間にそろばんを習いに行っていた。いつか役に立つと懸命にならった。師匠は街では、かわりものあつかいだったが、増尾のりょうちゃんは教え方は上手だった。半年で三級以上の力はついた。鉄工所をやめて大阪に行き、西区の九条商店街近くのクリーニング店に雇ってもらった。

「職」にこだわったのは「商売はあかん」という、祖母の刷り込みがあったかもしれない。刷り込みとは恐ろしいものだ。

店のうらに三人の店員が寝泊まりする組み立てハウスがある。私以外の二人は三年以上の経験があってベテランだった。一日も早くすべてをマスターしたかった。朝一番に大きな業務用のワッシャーでカッターシャツとか白物を洗う前に、襟や袖口などを一枚一枚ササラ掛けする。ドライ物は外注する。ワッシャーで洗い、脱水機にかけて屋上の物干し台にもって上がり、何本も渡されたロープのねじれの間にシャツの裾を指で押し込んで風で飛ばないようにして干す。洗濯鋏などは使わない。 寒い時期は、とても指が痛くなる作業だ。それが終わるとお昼になる。

午後はアイロンがけの見習いだ。アイロンがけが出来なければ「職を手に付けた」ことにはならない。カッターシャツなどに使うのは焼きアイロンといい、外注から戻ってきたドライ物に使う蒸気アイロンとがあって、蒸気アイロンは、普通は三年以上の焼きアイロンの経験を重ねたうえで取得するのが普通だった。

無駄だったとは思いたくないが、この一年半の埋め合わせをしようと、自分に言い聞かせて夢中で働いた。半年ほどたったころ、腹が痛むので店主に言って休ませてもらったが、いちど病院へ行って来いという。近くの九条病院にいくと、すぐに慢性盲腸の診断があり、今夜手術だという。М子さんが心配してやってきた。手術は、慢性だったためにあちこちに癒着しており一時間ほどかかったらしい。

ついでだからと、翌日に院内の耳鼻科に行ったが、それが20年後に役立つことになった。医師は、耳の匂いを嗅ぐだけでわかったそうで、若い医師を集めて嗅がせ、これは「真珠腫」というのだ。耳から脳につながっている骨の中を腐らせている。どんどん進んでいくと脳内に菌が入ると命にかかわる。だけど、今の医療では、手術ができないのだ。あと十年も経てば可能になるかもしれませんがねと、ていねいに説明してくださり、今後はどこに住んでいても、必ず名医を見つけておいて、もし、頭が異常にぐらぐらっと来たら、脳に近づいているとシグナルだからすぐ名医の所に行きなさいと教えられた。

盲腸の手術から三日目に退院させられた。当時は盲腸手術の場合は普通は一週間ほど入院させられるのが、九条病院は当時では先端的だったようだ。退院するとすぐにアイロンがけを命じられた。焼きアイロンを持ち上げるだけで手術した箇所が痛むのに、容赦はなかった。手術をさせていただいたのだから、文句は言えない。

職人たちは毎夜のごとく近くの「松島遊郭」へ遊びに行く。いちど、風呂へ行くときに全員が遊郭前を通って銭湯へいったことがある。

「そこのお兄さんたち、いい子がおりまっせ」「洗面器のお兄さんちょっと寄っていらっしゃいな、いい子を見繕いまっせ」ずらっと150軒以上は建ち並んでいた遊郭は、まだ禁止令が出る少し前で賑わっていた。

銭湯から寮に戻ると職人たちからなんどもラブレターを書かされた。遊郭女にラブレターをわたしても、と思うが彼らは私が書いてやって手紙をありがたく受け取ってくれる。

こういう嫌な頼みを聞いてやるので、普通なら蒸気アイロンの練習などさせてもらえないのにさせてくれるのだった。蒸気アイロンでどんなものでも仕上げができるようにならないと一人前としては通用しない。

最初、雇ってもらうときに見習いで入っているので給料がとても少ない。これではやっていけない。早く腕を磨き、ほかの店で働こうと頑張った。これまで旭区という地域には足を運んだことがないが、千林商店街という長い商店街がある。その通りの店に「経験三年です」と偽って雇ってもらった。経験三年というのは、一通りのことはできますという意味にもなる。

洗い場、干場、焼きアイロン、蒸気アイロンのほか、カッターシャツの仕込み(前夜に薄いノリを襟、袖口などを湿らせ、折りたたんでアイロンがけがしやすくしておく)染み抜き、ネーム付けなど一切ができないと経験三年とは言えない。これで給料は倍以上になった。

この店には職人が十二人いた。ボスが五歳ほど年上の吉田という人で、みんなは陰口でワンマンと呼んでいた。吉田首相のあだ名なのだ。主人とはまだ会っていない。このワンマンとは相性が悪いのか、ことごとくに私に対していちゃもんをつけてくる。ある日の夕食後、腹が減ったなーと私が何気なく呟いたことがあった。それにワンマンがかみついてきた。

『ココの晩飯が足らんというのか』

『そんな意味じゃありません』

『まだもっと食いたいというのだろう?』

『もっと食べたいとは思っていませんが』

『うどんなら食えるか』

『うどんでしたら』

『じゃあ、連れて行ってやろう、みんな一緒に来るんだ』

歩きながら

『言っとくがな、うどん十杯食えよ、十杯食わなんだら、明日の朝飯抜きだ』

うどん店に入ると

『おっさん、こいつに肉うどん十杯作ってやってくれ。いっぺんに作って並べてやってくれ、汁の一滴も残さんように食べると言ってるさかいに』

腹を決めるしかなかった、それを食べないとこの店に居れなくなる。

ずらっと、肉うどんが並んだ。普段は肉うどんなんて高価なので食べたこともない。一杯ずつならいいけれど、十杯を目の前に並べられるとうんざりしてしまう。

それでも、意地で食べた。食べ終えた。

『おーいみんな、見たか、こいつはバケモンなんや、普通の人間と違うぜ』

翌日から、食事の席に着くたびに、バケモンには足らんだろうナーと毎回嫌味を言われた。この野郎とは思ったが、けんかはしない主義なので、バケモンなので気を付けてくださいよと言っておいた。ワンマンと仲良くないので、仕事はより以上に頑張るほかない。仕事にケチを付けられては嫌だから。

そのころ、外国のクリーニング業というのは、どのようなものかに関心が強くなっていた。あちこちから外国情報を取り寄せていた。日本のような個人経営のものでなく、工場で作業がおこなわれている国が多いと知り、日本にも、そのような会社があるのかどうか調べたら、白洋舎が吹田で工場を持っていることが分かった。よく調べるうちに、「手の職」などはほとんど不要で、多くの工程が機械で行われるという。調べれば調べるほどに、今の日本の形態は、都会では二十年も続かないだろうと思った。

そのころ、街で出会った白洋舎の外交員に

『白洋舎の営業のトップの方のお名前をご存じじゃないですか』と訊いてみた。

『全体の営業部長は淀屋橋店に居られる結城さんだと思います』と教えていただいた。