中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(28)

違和感があるが、書き続けよう。
 
さて、大阪・旭区のクリーニング店に、3年の経験ありとして転職して、
背伸びし過ぎて毎日しんどい思いをしながら考えたことがある。
このままでいいのかどうか。私の人生はどうなるのか。
神学校と随分違う方向で生きているではないか。
将来何をやろうとしているのだろう・・・と、思い悩んだ。
クリーニング店をやるのなら、技術を習得して、店を持てるだけの金を稼が
なければならない。そこに意味があるのかどうか。
 
ところで、クリーニングという職業は、外国の場合はどうなのだろう?と考え始めた。
現在なら、インターネットで欧米のクリーニング業についていとも簡単に調べることが
出来るが、当時は欧米事情などなかなか調べられない。
かなりの努力をして欧米事情が分かった時には唖然とした。
規模が違いすぎる。とにかく日本のような家内工業的なものではない。
社会が変遷して行き、欧米のようになれば個人のクリーニング店などでは生活が
できないかもしれない・・・と考えた。ならば・・一生懸命技術を覚えても報われない
のではないかと。なぜならば、欧米諸国では機械化が進んでおり、ちまちまと、アイロンを
手にしているようなものではなかったからである。
 
先見の目と言えるのかどうか分からないが、21歳の時に考えたことである。
では、国内ではどうなのかと調べると、国内にも(株)白洋舎と言う当時では考えられない
ほど大きなクリーニング会社があった。
同じこの道で生きるのなら、先を考えて白洋舎で働けないかと思った。
当時は(いまも?)クリスチャン一家の五十嵐一族が経営していて、縁故採用
中心だと噂に聞いていた。
 
大阪の淀屋橋のたもとに「白洋舎」の大阪支店のビルがあった。今もあるのだろうが、
分からない。
そこの営業課長が結城と言う人だったと記憶している。当時そんなことを知るだけでも
大変だった。まず、自由時間がほとんどなく、外出もおぼつかなかったからである。
結城課長に何度も手紙を書き送った。入社させてほしいと願った。
ある日、返事が来て淀屋橋まで来いと言う。面接を受け採用が決まった。
しっかりした会社に自力で入社できたのだ。私の厚生年金の最初の会社が白洋舎と
なっている。
 
吹田市に白洋舎の工場がある。行ってみて驚いた。学校よりも大きいという印象を
受けた。カッターシャツや背広なども、途中工程までは機械でのアイロンがけとなる。
機会が出来ない部分だけ、手作業で行われていた。
私は、作業を選ばず営業を選んだ。
仕事場は、なんと野宿生活を送った住吉公園に近い大阪の浜寺営業所だった。
浜寺の周辺は空襲から逃れ焼け残っており、巨大な邸宅街だった。
 
300坪~400坪程度の邸宅が立ち並んではいたが、戦後のこととて見た目以上に
生活は苦しそうだった。しかし、プライドがあるのだろう。個人のクリーニング店より
白洋舎というブランドの受けは良かった。当時、背広などは個人店に較べて料金は
倍ほど高かったものである。
邸宅周りだけではないが、この周辺に出入りするようになって鍛えられたことがある。
上品に人と接する術を学んだものだ。エリートとおしゃべりする術も学んだ。
こう言うことが案外役立つものである。