中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(45)私を守ってくれたのはだれなのか

     《大荒れの日本海へ》

  境港までかなり時間がかかった。連絡船は神戸から淡路島までの連絡船より二回りも大きく感じられた。内海を航行する船と外海を航行する船の違いのようだ。乗船して三等席に降りていくと、淡路行きと同じように、それぞれが小さな輪を作って座っていた。しばらくして船員がやってきたので、お茶でも配ってくれるのかと思ったら、それが違った。一人ずつに洗面器が配られたが、その時には、その意味が全く分からなかった。

船が出航して半時間も経たないうちに理由が分かった、あちらでもこちらでもゲーゲーとやりだす人が増えてきた。私も船の揺れには弱い。耳が悪くて三半規管に問題を抱えているので、揺れに順応できないのだ。乗客の半分ほどが洗面器を抱えて吐いている、その音と共に船内に強烈なにおいが充満してきて、一層気分が悪くなってくる。

菱浦港まで何時間かかったのか、おぼろげにしか覚えてないが境港から六時間ほどかかったと思う。日本海の荒波というのはやはりすさまじいものだった。

大野っていえばわかるっていうけれど、それほどに島が狭いのかな、大丈夫だろうかと心配していたら、大野さんが迎えに来てくれていた。日に一便しかないのだから毎日来たってどういうこともないよという。大野さんは保育科の北川さんを伴っていた。保育科の生徒との交流は禁止されているから、これは内緒だぞって言う。北川さんは大野さんとほぼ同じ年ぐらいで、美人ではないが素敵な女性だ。あと二年もすれば、大野さんも伝道師か牧師になるだろうし、北川さんとのコンビでやれば、保育園か幼稚園の経営だってうまくいくのではとふたりの今後を考えた。

そういえば「農伝」の学生たちは、だれもが社会経験があり、それぞれ優れた才能を持っていた。三鷹にある「神学大学」は、高校から入学したエリートたちが多いのだろうが、「農伝」の生徒たちは、すでに社会経験が豊富で、それぞれに特技を持っているようにも見えた。その中で信仰が深まり伝道者になろうと心を決めてここに集っているのだろうと思える生徒が多かった。

しかし、面白いことに、だれもが自分の来歴を話そうとはしなかったし、こちらの来歴を聞こうとする人もいなかった。大野さんだって、これまでの経歴を一度も話してくれなかったし、僕の来歴を聞こうともしなかった。

それぞれに、ひと山もふた山も越えてきたのだろうと思う。来歴と信仰とは関係ないという姿勢が各自にあるようだった。不思議なことに、生徒間で信仰について論議することもなかった。それぞれが、それぞれの道に向かって行っているのだろう。そういう点で、今回の大野さんの誘いは意外だったし、たよりない僕に伝えたいことがあるのかもしれないと思った。

大野家に着くと挨拶もソコソコに、さっそく、やろうと、新聞紙を山のように持ってきて、これを手で細かくちぎってくれという。ちぎり終えると大きな釜の中に入れて煮始めた。新聞紙がドロドロになってから、絵本にある物語の主人公の頭部、腕、足、胴体などをこねて作っていき組み立てる。やったことは全くないが、北川さんの指示に従って作る。四つの物語の人形劇をやるのだという。人形劇など見たこともない。全く無知の僕を指導してどんどん進めていった。大野さんも僕と同じで初めての体験だという。

不思議なもので、それらを乾かし、色を付けていくと、人形らしきものが出来上がった。つぎは、人形のセリフを各自で覚えることになった。脚本は北川さんが作ってあるのだが台本をくれるわけではない。すべてを暗記せよというから大変だ。すったもんだで、やっとなんとかできるかなという日に、出かけるぞという。

荷物を担ぎ、山を越えると菱浦港とは反対側の海に出た。そこは内海のように静かだった。隣の西ノ島へ船で渡るという。小さな船で西ノ島へ渡った。大野さんに先導されてどんどん歩く。あるおうちに着くと二十人ほどの人が集まっていた。毛布があるか、シーツがあるか、ロープがあるかと言っているうちに、柱と柱の間にロープが張られ、そこにシーツが掛けられて人形劇の舞台が出来た。

人形は、腕にはめ、指を動かすと動作ができるように作られていたので、集まったお客さんたちはものすごく喜んでくれる。こんな、ど素人の人形劇なのにと、こちらが感激してしまうほどだった。「母を探して三千里」「フランダースの犬」は、お客さんたちが、泣いたり笑ったりして大いに盛り上がった。もう一つは寸劇だった。電気があると、幻灯でやれるのだがな~と大野さんが言っていたが、手作りの人形だから盛り上がったのかもしれない。

 東京ではこの年からテレビ放送が始まっていたが、隠岐諸島ではテレビなどいつになったら、見られるようになるのだろう。町のいたるところでは「お富さん」の歌謡曲が流されていた。実は、「お富さん」の歌が流行っていることさえしらなかったのだ。学校の食堂においてある唯一のラジオで、流行歌は禁止だったからでもある。社会の悪風と遮断しようと学校当局は考えていたのだろうが、鶏舎専門担当の佐々木先輩が、近くの大きな農家に連れて行ってくれて、力道山のプロレススをテレビで見たことがあった。

隠岐の島諸島で「お富さん」を初めて聞くことになるとは妙なものだった。人形劇が好評だったので、人形の修理をしながら、ほかの三地域で、同じようなことをやった。特別にキリスト教の話などはしなかった。見に来る人たちは、三人が「東京から来た人だと」言うことだけで、興奮し、喜んでくださった。それほどに、島の人たちにとっては東京が遠いところであったのだろう。

 ある朝の食事におどろいた。イカの刺身?が丼に山ほど盛って出てきた。五時に起きてすべてを一本釣りで釣ったという。ピチピチのいかが細く刻まれている。それを、丼椀の飯にのせ、ゴマをたっぷりかけて食べるのが習わしだそうだ。個人的には、ゴマをかけないほうがうまいのだけれど、ゴマが豊富なのと、ゴマをたくさん食べることで、この島の人たちが長寿だと言って自慢する。くる日も来る日もイカとゴマを飽きるほど食べさせられた。イカが来ているときに食べないと、潮がかわれば釣れないということだった。

毎日、午後五時が過ぎると、島のあちこちから人が集まってくる。坂を上ってくるだれもが、提灯をぶらさげている。だれもが、東京から来た人を見るためだった。ぼくは淡路島・・・なんて言える雰囲気ではない。東京から来た人なのだ。だれもが若い人たちばかりで、歌をうたい、トランプゲームに興じ、電気が消えても燈明をつけて騒いでいた。毎夜くる人が半分、新しく来る人が半分みんなに喜ばれたのだからこれでいいと、大野さんが言う。

年の瀬が迫ってきて、障子を貼りかえるらしい。障子紙を貼るのは僕に任してくださいと申しでた。大野家は大きいので障子が五十枚以上もあるぞ、大丈夫かというので、貼るだけなら大丈夫だけど、洗うのはお願いしますといった。ぼくは中学生当時から、障子貼りは得意だった。角田家でも貼ってよろこばれたものだ。

障子紙を貼るにはコツがいる。刷毛の使い方、糊の作り方、手の持っていき方が大切だ。しわをつくらぬように、紙を手でのばしながらそっと置いていく。たいして難しくはない。あとは口にしずを含んで霧状に吹きかけるだけで紙がぴんと張って美しくなる。貼り終わると大変喜んでくださったが、ぼくにとっては楽勝ものなのだ。

 新年のあいさつの文言が面白かった。この島独特の方言でのあいさつを覚えて皆さんに挨拶をする。それを皆さんが喜んでくださった。正月には、この地独特の「銭太鼓」演技を競い合って楽しむなどにぎやかな日々を過ごさせてもらった。

 「銭太鼓」も地域ごとに流儀が違うらしい。