中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

日露戦争と安倍政権 (2)

 前回の(1)の最後は、次の文章で終わっています。

 『日露戦争に勝った! しかし、結果的には暴走日本軍を作る結果と

なってしまったのですが、なにがそうさせたのかを、 次に考えたいと

思っています。』・・・と。 さて、ここから第2回目を書きます。

 このタイトルで書くのは今回で終わりますが、少々長くなります。

先に結論を書いておきます。日露戦争は、日本人の私たちはロシアに大勝した

ように思ってりますし、そう思うように教育されたものでした。どの国の場合も

同じですが、教育による「刷り込み」というものは、恐ろしいものです。

日露戦争後の記録処理ということで、当時の日本政府は大きな誤りを

犯しました。その頃はまさか、そのために日本の軍部が腐っていくとは

思っても今かったでしょが・・。そして世界を相手に戦争を起こすとも

考えていなかったでしょう。 しかし、日露戦争を正確に記録すると

いうとても大事なことを、時の政府はやらなかったのです。それが今の

安倍政権とおなじ姿勢だといっても過言ではありません。 

 じゃあ、どんなことをしたのかを・・具体的に書いておきましょう。

 日露戦争は、侵略戦争ではありません。その後に日本軍が関わった

多くの戦争はすべて侵略戦争といえましょうが。 一口に纏めてしま

えば満州朝鮮半島をめぐる権益争いの戦争であったということです。

 ロシアが清国から遼東半島の先端付近を租借して、「太平洋艦隊」と

称する大海軍基地を作り、その視野の先に朝鮮半島や日本列島が入って

いるという、とてもきわどい時代だった。 ロシアの領土拡大主義が

シベリアを超え、太平洋へと向かっていた時期だった。 

日本はこれを無視しているわけにはいかないという局面だった。

 遼東半島の先にある「旅順」がロシアの艦隊基地であり、その基地を

守るためにロシアは強固な要塞を構築していた。いわゆる203高地で

ある。 この当時の日本は、明治維新後わずか30数年後のことである。

この戦争は、当初は旅順で戦わずに、満州の荒野でロシアと向き合う

作戦だったのだが、ロシアがヨーロッパから最強の「バルテイック艦隊」

日本海まで遠路回航してくる作戦だと知るに及んで作戦を練り直した。

バルティック艦隊が来るまでに旅順にいる太平洋艦隊を殲滅しておかなけ

れば、日本海制海権がロシアに奪われる。制海権が奪われてしまうと、

日本からの海上輸送が絶たれて満州も孤立してしまう。そしてまた、日本

本土も最悪の危機に立たされててしまう。

 そこで「旅順」を攻撃することになったのだが、司令官に選ばれたのが

乃木希典大将だった。乃木大将はそれまで閑職にいた人で、このような

大作戦向きの人ではなかったようで、近代的な要塞とはどういうものかも

知らなかったようなのだ。それでも乃木さんが選ばれたというのは「長州閥

に属していたからである。乃木さんにとって不幸なのは、部下の参謀長として

伊地知中将がついたことだった。伊地知はことごとくと言ってよいほど乃木

さんの指示に異論をはさみ、そのために作戦が失敗したといわれているが、

伊地知は薩摩藩閥であり、薩長のバランスを取るために人事だったようだ。

 乃木さんが指揮を執った第3軍はどう考えても馬鹿らしいような突撃を

繰り返し、多くの兵士を無駄死にさせたのだったが、当時も伊地知による

間違った作戦の結果だといわれていたようだが、いじちは大山巌という

トップの親戚筋であり、いじちの大失敗も見逃されていった。

 いずれにしても、乃木さんと伊地知さんの作戦も指揮も、多くの兵士を

無駄に死なせた(戦って死ぬのではなく、ただただ総攻撃をなんども繰り

返し、敵の鉄砲玉に打ち砕かれる結果だった)作戦と言えるようなもので

はなかった。だが、この話を書くと右翼などから良くは思われないのだ。

なにしろ「乃木神社」まで作られたほどであって、神様になった方でも

あるからだ。 しかし、事実は事実で致し方ない。実に下手な作戦で数万

の兵を無駄死にさせてしまったのは事実なのだから。

  私は、ムダに死んでいった兵士の側から書いている。兵士の家族の側に

立って書いている。本人もご家族もどんなにか悔しいことか。人を

何だと思っているのか!!と怒りさえ覚える。

 さてさて・・問題はこの先だ。簡単に書こう。日露戦争後にとてつも

ない記録が残された。参謀本部編纂の全10巻にも及ぶ記録である。

ところが、この中に戦争の流れを読み解く事実がすべて伏せられている。

この戦争に勝てたのは、海軍が奇跡的な「日本海海戦」においてバルテ

ィック艦隊を全滅させたからだと言っても過言ではない。陸軍は最後に

児玉源太郎が指揮を執って、あっという間に203高地を奪い、旅順港

の太平洋艦隊を砲撃で沈め、日本海軍がバルティック艦隊だけを相手に

戦える体制を整えたのだった。 児玉源太郎という人は凄い人だったと

いえる。日本が台湾を治めたとき、最初は大失敗続きだった。ついに

児玉源太郎が言って治めたために、現在につながる日本と台湾につながる

信頼関係が築かれたのだった。

 話を戻そう、日露戦争後の話を書こう。先ほども書いたように、戦争の

記録が、都合の良いように書きかえられ、失敗の事実はすべて伏せられて

いる。 こういう記録の残し方は、後世に何の役にも立たないばかりか、

間違った認識を持たせる結果となった。「日本は強い!」と信仰のような

認識を持たせたことで、考え方が粗末になり、計画性を持たなくなり、

孫氏の兵法さえ忘れている。己を知って敵を知ることもなく、己も知らず

敵も知らずに戦いを挑む結果になったのが「大東亜戦争」(太平洋戦争)

だった。失敗をすべて隠してしまった結果と言える。世界広といえども、

戦争記録をここまで隠したのは珍しいようなのだ。 失敗を次に生かすと

いう考え方は投じなかったのか? そうではない。当時にも常識派という

人は多かった。だが、薩長閥の人事というものが、結果としてつまらない

戦争記録を残すことになった。 多くの兵士を無駄死にさせる結果となった

伊地知は、一時は責任を取らされて降格されているが、結局は中将になって

いるし、男爵に任じられている。乃木さんは男爵だったが2階級上がって

伯爵になった。長州閥だけで21人が華族に昇格している。維新後、英国

を真似てこういう華族を作っていて、大東亜戦争あ終わるまで続いたのだった。

間違った褒章主義と言えるだろう。 安倍政権を見てみよう。かれも長州閥

の人であることはご存じだろう。 そして、大事なことは、すべて隠す!!

ことまで同じなのだ。 安倍政権の在り方を見ていて、日露戦争のことまで

思い出して、この項を書くことになってしまった。 長い文章を読んで

下さって・・ありがとうございました。まだ書き足りませんが、これで

終わります。