中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

大阪城の・・続きを書きます

 前回、大阪城は大きかった・・と書きましたが、その規模を

説明するには、あるいは説明されても、大阪の地図が頭の中に

ないとわかり辛いかもしれませんが・・。私は70年近く前ですが

自転車で旧市内をくまなく走っていましたので熟知していました。

しかし現在は高速道路の高架ができ、長堀川が埋め立てられたり、

昔を知る者にとっては、今の大阪は辛い。

それはさておき・・大阪城の話にしましょう。大阪城の外郭は北の

方向にある淀川に沿っていて、西は外堀を東横堀に、高麗橋に正門を

持ち、南は道頓堀から玉造までにおよぶ空堀を巡らせていました。

日本史上最も大きな城であった。

 本丸、二の丸、三の丸にわかれていて天守閣は七層で、屋根には

金のしゃちほこがかざられていて、(しゃちほこは名古屋城だけでは

なかったのです)瓦にも金箔が貼られていた。

 塁壁の高さは20間、堀は深く、水は深かった。二の丸、三の丸

の堀は幅が40間~60間と広く、敵の攻撃から守っていた。

 もちろん、これらの堀が徳川家康の知能的な駆け引きによって埋め

られてしまい、意味を持たなくなって、あっという間に落とされた

ということはだれもが知っている史実でああるが・・。

 秀吉は、どうしてこんな巨城を作れたのか・・。ちょうどこのころに

日本の鉱山から「金」がどんどん産出して秀吉のところには金がどんどん

集まっていたようだ。当時の日本は世界屈指の金産国だった。

 秀吉が初めてこの地に城を建てたわけではなく、この場所は石山本願寺

があった場所なのです。 室町時代浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如

さんがこの地に本山を築いたのです。 蓮如さんは第8代大谷派の宗主ですが、

9代目になるころには立派な城になったようです。10代目の時に織田信長

石山本願寺(当時は一向宗と言われていました)を攻めたのですが、なかなか

おとせず、戦上手の信長が10年間も攻めながら手にすることが出来なかった

というのも、当時の大阪と言う地形と大阪城の関係を知れば納得できるほど、

難攻不落な地形の上に建てられていたからだと言えます。 秀吉は自分も

石山本願寺攻めに参加していたこともあり、自分の時代になって、この有利な

地形の場所に大阪城を建てたというわけです。

 現在の大阪城は、言うまでもなく縮小した形で、昭和初年にコンクリート

作りで建てられました。しかし、誇るべきは・・公の金を使っていないという

ことなのです。市民からの寄付金のみで建てられたということは、大阪人の

誇りでしょう。通天閣だって市民の寄付で建てられたのです。大阪人はケチ

ではなくて、普段は節約しても出すときには出す!!というわけです。

 大阪城が完成した後で戦時になり、陸軍の第八連隊が大阪城を占拠して

いました。八連隊は子供たちから「またも負けたか八連隊」などといわれ

るほどに弱かったと言われていますが、調べてみるとそれほどには弱く

なかったということです。 私は阪神が8連敗すると「またも負けたか

八連隊」と今でも言ってしまうので妻が笑うのです。