中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

美智子様の85歳の誕生日に思うこと

 上皇后美智子さまは20日、85歳の誕生日を迎えられた。

台風15号の大規模停電の被害を心配し、広域にわたって多数の

河川が氾濫した19号の甚大な被害については「これまでに記憶の

ない形態の災害被害」と心を痛められていると伝えられている。

被災地に配慮して誕生日当日の祝賀行事は中止された。

  体調面では6月初旬に心臓の二つの弁の逆流症や不整脈と診断

され、同月には両目の白内障手術、9月には乳がんの摘出手術も

受けられた。がんは完全に切除され、現在はホルモン療法を受け

られている。このような中でも、上皇さまとの生活を大切にし、

三食を必ず一緒にとり、東御苑を散策するなど残る皇居での日々を

懐かしむように過ごされている。 こんなニュースが流れている。

 ニュースとは別に私には美智子様が気になってしようがない。

あの日、外務省からから前夜に連絡が入り、突然ですがあすの午後、

皇居内の御所にお連れしますから、そのおつもりでいてくださいと

いわれた。迎えの車が来て、あの二重橋のところを通り、何の検問

も受けることなく車が皇居内に入っていった。宮殿の前を通過し、

どんどん皇居内を車は進む。外務省の担当者から注意事項が告げられる。

 カメラは車の中に置いて降りてください。両陛下が玄関までお出迎え

下さり握手を賜ります。日本人の場合は首相といえども握手はしないと

いうことに決まっていますが、今日の中原さんは外人枠と言うことです。

(当時、西豪州日本クラブ会長、全豪州日本クラブ会長だった)

私は緊張する。両陛下が玄関までお出迎えとは・・天皇は男性だから

普通に握手をしよう、しかし美智子様の場合は・・どうしたらいいの

だろう・・と、ためらいが先にあった。なにしろ私の世代の男性にとって

美智子さまは世界最高の憧れの女性でもあったのだから。美智子様より

私の方が誕生日が5日早いだけ。同年なのだ。

 私は、そっと手をだした。軽く握った。すると、美智子さまは深く

握り直し、ぎゅうと、力強く握り締めてくださった。羽二重餅のような

感触の手に強く握られた、あの感触は今も忘れられない。日本に住んで

いる日本人では私一人ではないだろうかと・・自負している。

 私の胸には「オーストラリア・シドニー」と書かれたカードがあった。

車から降りる際につけられたものだ。 美智子様が「シドニーからおいでに

なったのですね」と仰った。 そこで「いいえ、このカードは間違っていて

私はパースからまいりました」と申し上げると、「まあ!パースですか?

私がまだ皇太子妃であった頃にパースにまいりました。きれいなところで

すよね。あちこちご案内していただいたのですが、あのときお世話になった

ピアスさんはいまもご健在でしょうか?」とお尋ねになった。私はピアス

さんと懇意にしておりましたので、その旨を申し上げますと、とても喜んで

おられました。 この会話を横でお聞きになっていた天皇陛下が「あの時、

私はパースではなくフリーマントルに行きましたので、パースのことは

あまり見てないのですよ・・と仰った。 当時、美智子様がインドで開催

されていた児童文学の会合に向けてのメッセージを出しておられて、その

テープを聴いていたので、「素晴らしいメッセージでした」と申し上げると、

身をよじらせて、とても恥ずかしげなしぐさをされて「慣れないことを

いたしまして、とても恥ずかしゅうございます」といわれた。あの時の

しぐさなども忘れられない一瞬だった。

 心臓や乳がんなどいろいろと重大な疾病をお持ちのようだが、それは

年齢を考えれば、珍しいことではない。まだまだ他にも辛い個所がおありに

ちがいないが、国民のためにこんなに尽くされた両陛下は歴史的にみても

他にないのではと思える。両陛下の(今は上皇様)のご健康を毎日、祈って

いる。天皇制に異論のある方もおられようが、お会いになると分かるように

あのお二人の輝くようなお心に触れると、やはり日本には天皇制が必要だと

思う他ない。 私が招かれたのは1999年だった。もう20年も前になる。