中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

大阪弁

JA・NEWS新聞 2004年掲載
 
大阪弁について(パース在住中の出来事)
 
 ある日、一人の女性と私たち夫婦が、柄にもなくシリアスな話題を話し合っていた。家内が少々、本題とそれたことを言ったので、私が家内に向かって「あほやなぁ~そうと違うやんか」といった途端に、その女性は家内に向かって「紀子さん、アホなんて言わせなさんな!」と強い口調で、しかも真顔で言ったのである。私は驚き、あっけにとられながら説明しなくてはならなかった。
 こういう場合に、このようなイントネーションで使う「あほやなぁ~・・・・」という言い方は、相手を見下したり、非難したりするものではなく、次の言葉につなぐための前置きのようなもので、「親しい間柄の場合にしか使わないものですよ」と、口を酸っぱくして説明はしたが、納得していただけた様子はなかった。その方の虫の居所が悪かったにせよ、こういう誤解が生じるということは、日本にもさまざまな言語文化があるものだと、つくづく感じたものだ。 アメリカで起こった多発テロ以来、世界は不穏な状態が続いている。文明の摩擦という見方もあれば、宗教の対立という見方もある。その上に言語の違いもあるはずである。言語の違いは、想像以上にお互いの理解を阻むものであることは、小さな日本においてさえあり得ることが、先ほどのエピソードにも表れている。
 田辺聖子さんの「大阪弁ちゃらんぽらん」という本には、「あほ」の項に次のように書かれている。 <「あほ」「あほやなあ」「あほかいな」「あんた、あほちゃうか」などと使う。そこには侮蔑や叱責や嘲弄、憫笑はない。だからこそ、大阪人は無造作に頻発する。一呼吸ごとに使う。>と解説している。私の場合は親しい間柄にしか使わないが。
 <東京人を相手に、「あほやな、あんたは」などとやらかすと、大変なことになる。「人をつかまえてあほとは何だ、この野郎!表へでろ!」と厄介なことになり、血の雨がふりかねない。東京人は、あほを直訳して、馬鹿と結びつけるからである。>
 <だから、いわば「あほ」「あほやなぁ」「あほかいな」は大阪弁では、間投詞、感嘆詞というべく、相手のおろかぶりを、同じところで、一緒に笑っているという感じである。一段高いところから、採決し、嘲弄しているのでは決してないのである。>
 田辺さんは、さまざまな角度から上手に説明を加えていて、さすが作家だと感心するが、 <つまり、炬燵の中とか、風呂場の中とか、社長室とか、蔵の二階とか、そういうところから「あほ」などという、ひそやかな声が聞こえたりしますと、これはもう実に、なまめかしい、歌麿、栄泉の世界ですなあ。>と書かれているのには、思わず「うまい!」とうなってしまった。 因みに大阪で相手を侮蔑する時は「あほんだら!」「あほめ!」と使う。また「このすかたん!」「あほ、すかたん!」「呆け!」などとも言い、もっとひどいのは「あほんだら、しばいたろか」となるが、ここまで来ると、けんか腰である。最近のドラマを見ていると東京でも「あほ」を使っている。この場合の意味合いは大阪で使うものとは違っているだろうから厄介である。誤解を招かないためにも、関西以外では使ってもらいたくないと言う心境だ。
 私自身は自分の事を「大阪人」と自認している。私のアイデンティティは日本人であると共に「大阪人」「「関西人」である。大阪人としての意識の最も大きな根拠は、自分が「本音族」だからである。大阪人には本音族が多い。私は大阪で生まれ、二十三歳までに飛び飛びながら十四年間を大阪の、ど真ん中(旧市内)で暮らしていた。西成区、旭区、西区、東区、南区と住んだ経験があり、特に大阪の匂いが濃い南区は「ネズミの穴まで知っている」と当時、吹聴していたほどであった。最も影響を受けやすい年頃を大阪で過ごしたことになる。仕事の上では、大阪商人のエキスを注入されたし、大阪弁(この場合は、船場言葉)を正しく使うことを強制されたものである。しかも自転車で行動していただけに、大阪の隅々まで知っている。先日、あるところで偶然にも大阪系人間数人と出合った。たちまちにして笑いの渦が巻き起こり、二時間は笑い転げたものである。大阪人が寄ればそこには漫才がある。
 京阪神…すなわち京都・大阪・神戸のことであるが、大阪から京都まで七十キロ、神戸まで五十キロほどしか離れていない。それなのに、この三つの都市には歴史的背景から、大きな違いがある。 京都は、一夜にして権力者が入れ替わるという経験を数多く積んでいるだけに、建前でものをいう傾向があり、生活習慣の中にもそれが出ている。その風潮は地理的条件から福井県小浜、兵庫県丹波、但馬地方にも及んでいて「京都文化圏的風習」ともいうべきものが、今もなお続いている。大阪弁は京都弁から派生していて、語尾など以外はさほど違わないが、京都弁はテンポが遅い分だけ優雅に聞こえる。神戸は文化的には新しい地で、開港されてからの輸入文化の影響の強いところである。それだけに新進気鋭にとんでいるが、言葉はきれいとは言い難い。歴史的には、京都弁は公家の影響を受け、大阪弁は商人の影響を受け、神戸弁は漁師町の影響が今も少々残っている。距離的に近く、日常的に交流がある環境にありながらも、大阪以外で使っている言葉は、大阪弁とは多少ニュアンスが違っているから不思議なものである。
 NHKが大阪局のJOBKを建て直し、地上百メートルの素晴らしいものをつくり上げたことを祝って、今週(十一月第二週)のNHKの放送は「大阪づくし」である。その上、十一月七日が大阪城再建から七十周年になるのとあいまって、大阪をめぐる話題が尽きない。 十一月五日の番組「ひるどき」は、天神橋筋商店街が紹介されていた。二・六キロもある大きな商店街で、伝統もある。番組の中で商店街会長さんが「大阪では『こんにちは』のことを『もうかりまっか』と言います」と話していた。全国ネットの番組で、地元の人にこんな間違ったことを言ってもらっては、ますますもって大阪弁が誤解されかねない。 「もうかりまっか」は商売人同士の挨拶であって、商売に関係のない人が言う言葉ではないし、使ってもいない。そしてまた、「もうかりまっか」という言葉の中には、「How are you ?」の意味合いがあって、商売人同士「商売はうまく行っていますか? ご機嫌はよろしいか?」という意味合いも含まれているのである。私は船場言葉を仕込まれる時に、そのように教えられてきたものだ。最近の大阪弁は、船場の言葉ではなく、下町の言葉が主流になっているとはいえ、間違ったことを全国ネットで喋ってもらっては困るのである。NHKの朝の連続ドラマ「ほんまもん」に出演している根津甚八さんの大阪弁は「にせもん」である。リバイバル放送の朝ドラ「よーいどん」は、さすがにバリバリの大阪弁ばかりだ。最近はドラマの製作姿勢に「ほんまもん」を追及する姿勢が欠けて来たのだろうか。
 インターネットの豪州編掲示板に「オーストラリアまで来て、大阪弁を聞きたくない、日本の恥だ!」という投書があり、それに応じて「そうだそうだ!」という投書が七百通も来たというのである。恐ろしい偏見である。まず、日本の歴史も知らない、文化も知らない輩が多くなっているということだろうか。英語を覚える前に、日本語を正しく理解し、日本の文化を良く知るべきだと思う。標準語が最高だと考えている人に尋ねたい。 「標準語はいつ出来たのかをご存知なのですか?」と。標準語がやっと使われ始めたのは一九二五年頃である。標準語を設定する時に初めて、「お父さん」「お母さん」という言葉もつくられた。それが全国に普及したのは戦後であろう。たかだか七十五年の歴史であり、普及してからは僅か五十年ほどの歴史である。それに比べて各地の方言には深い歴史があり、その言葉には味わいがある。標準語だけで小説が書けないといわれる所以は、表現力が弱いからでもある。今や江戸っ子の代表ともいわれている佃島の人々は、家康が網を使っての漁法がまだ普及していない関東に、その漁法を導入すべく、大阪のある村の漁師全部に、サムライと同じ「名字帯刀」を許す待遇で佃島に迎えた人たちの子孫である。
 津軽弁も南部弁も薩摩言葉も沖縄の言葉も、名古屋弁も関西弁も、みんな味があって素晴らしいではないか。私は地方の言葉が大好きである。方言の味わいが分からないのは、日本をよく知らないからだと考えている。大阪弁をオーストラリアで聞きたくないと言うような人は、英語だって方言があるということを忘れているようだ。
 最後に誤解の多い大阪人気質について触れてみたい。「もうかりまっか」が一人歩きして大阪人はけちだとか、金儲けばかりを考えているように思っている人が多いのに驚いている。世界へ出て「日本人はエコノミック・アニマル」だと言われた時と同じような不快さを感じる。 大阪名物の「大阪城」は七十年前に、今のお金に換算して八百億円をかけて再建された、「通天閣」は戦後再建されたが、どちらも庶民が金を出してつくったものである。日本広しといえども、このような例は少ない。また日本が誇る古典芸能の歌舞伎、能、狂言文楽などに京都、大阪の財界と庶民が果たした役割はあまりにも大きい。芸術を育てるには、莫大な金の後ろ盾が必要なことは世界共通の認識である。歴史的にも、それぞれの時代にあって大きな貢献があり、とてもけちな土地柄では出来得ぬことだ。大阪は身銭が切れる土地柄というべきか。
 表記の「大阪弁ちゃらんぽらん」には、「ああしんど」「あかん」「わや」「あほ」「すかたん」「えげつない」「チョネチョネ」「けったいな」「あんばい」「ややこしい」「しんきくさい」「いちびる」「ねちこい」「ぼろくち」「ウダウダ」「タコツル」「サン」「ハン」「てんか」などが詳しく書かれている。これを読めば、これまで感じていた受け止め方とは、かなり違った使われ方をしていることに気づくだろう。
 言葉は歴史であり、歴史が言葉を生み出していくものである。方言かと思う言葉を辞書で調べると、そこに「古語」なんて書いてあったりする。そしてまた、思わぬ語源に驚くことも多い。標準語よりも方言の中に言葉の面白さが隠されていることに気づくと、世の中がもっと広がり、楽しく感じるだろう。